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2009年06月26日

マイケル・ジャクソン急死 動画あり

米歌手M・ジャクソンさん死去、復活コンサートかなわず

 米歌手マイケル・ジャクソンさんが25日、ロサンゼルスで死亡した。50歳だった。子どものころからスターで、ポップ界の頂点に君臨したジャクソンさんだが、一方で奇妙な生活スタイルや性的なスキャンダルは、音楽の才能に影を落とした。

 ロサンゼルス郡の検視官によると、ジャクソンさんは心肺停止状態でロサンゼルスの病院に運ばれた後、現地時間午後2時26分に死亡した。死因は明らかにされておらず、検視は26日に行われる予定だという。

 ジャクソンさんの兄、ジャーメインさんは記者団に、自宅で具合が悪くなり、かかりつけの医師が蘇生しようとしたが、出来なかったと明かした。ジャクソンさんは救急隊によって病院に搬送され、医師は死亡を宣告する前に1時間以上蘇生を試みたという。

 「ポップの王様」として知られ、「スリラー」や「ビリー・ジーン」など数多くのヒット曲があるジャクソンさんは、コンサートでは片手だけに手袋をしたドラマチックな存在感を示し、「ムーンウォーク」など革新的なダンス・スタイルは世界中で多くのファンがまねをした。

 ミュージックビデオの有り方を大きく変え、生涯のレコード売り上げ枚数は約7億5000万枚といわれている。13のグラミー賞も受賞するなど、最も成功したエンターテイナーの1人だ。

 一方、子どもと一緒にいることを好み、チンパンジーと友情を育み、整形手術を繰り返すなどしたことで、好奇の目や批判にもさらされた。

 ジャクソンさんは、子どもに対する性的虐待の容疑がかけられた裁判で無罪となった2005年以降、実質的な活動を停止して表舞台から遠ざかっていたが、来月からロンドンで復活ツアーを開始する予定だった。

 アルバム「スリラー」のアレンジを手掛けたプロデューサーのクインシー・ジョーンズ氏は米テレビ局MSNBCに「この悲劇的な予期せぬ知らせに非常にショックを受けている。突然に、こんなに若くしてマイケルがいなくなってしまうとは、言葉がない。私は今日、弟をなくした。私の心の一部も彼と一緒になくなった」と語った。

<復活コンサートは完売>

 復活コンサートはロンドンで7月13日から2010年3月まで行われる予定だった。ジャクソンさんは、過去2カ月間、ロサンゼルスでコンサートに備えてリハーサルをしていたという。50回分のコンサートチケットは3月に発売になったが、数分で売り切れとなっていた。

 ここ数年、ジャクソンさんの健康状態を懸念する声もあった。ジャクソンさんは昨年、ラスベガスで車いすに乗っているところを写真に撮られたが、その理由は説明されなかった。

 もっとも、ロンドンのコンサートの主催者AEGライブは、ジャクソンさんが3月に4時間半にわたる健康診断を受けて問題がなかったとしている。

 訃報を聞きつけ、ロサンゼルスの病院の外には200人のファンや報道陣が集まった。涙を流したり、抱き合ったりするファンの姿もみられた。

 <子どもスターからスーパースターへ>

 ジャクソンさんは1958年8月29日にインディアナ州生まれ。9人兄弟の7人目として誕生した。兄弟5人で結成したジャクソン5は、マイケルさんが6歳のときに初めてオーディションに出演した。

 1972年に初のソロアルバムを発表。1982年に発表した「スリラー」は7曲のトップ10入りヒットを生み、米国だけで2100万枚を売り上げた。翌年には、NBCテレビの特番で「ビリー・ジーン」を歌い、ダンスパフォーマンスの「ムーンウォーク」を初めて披露した。

 一方、私生活はトラブル続きだった。

 1993年には鎮痛剤への依存症を理由に、アルバム「デンジャラス」のプロモーションツアーを突然キャンセルしていた。

 1994年に故エルビス・プレスリーさんのひとり娘、リサ・マリー・プレスリーさんと結婚したが1996年に離婚。同年デビー・ローさんと再婚し、2人の子どもをもうけたが、一緒に住むことがないまま、1999年に離婚した。

 ジャクソンさんには3人の子どもがいる。3人目の子どもをホテルのバルコニーから外側に突き出して見せ、非難を浴びたこともあった。

http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/
idJPJAPAN-38739120090626?pageNumber
=1&virtualBrandChannel=0



マイケル・ジャクソンさん急死 スキャンダル 体むしばむ


 ■「ムーンウオーク」社会現象に

 25日に死去したマイケル・ジャクソンさんはポップスの歴史を塗り替えた文字通りのスーパースターだった。ダンスや映像を駆使した独自のパフォーマンスは若者に社会現象を巻き起こした。半面、私生活はスキャンダルとトラブルの連続で、ストレスからくる健康問題に悩まされた。

 ジャクソンさんの人気を不動にしたのは1980年代の大ヒット曲「スリラー」。オオカミ男の特殊メーク姿でゾンビ姿のダンサーと踊るプロモーションビデオは、「音楽は聴くもの」という概念を覆した。

 つま先立ちで後ろ向きに滑るように踊る「ムーンウオーク」も一世を風靡(ふうび)。まねをした若者がけがをするなど社会現象化した。ある音楽関係者は「見せる音楽はヒップホップをはじめとして今の音楽の基本となっている。ブラックミュージック界のビートルズといえるだろう」と評価する。

 しかし、栄光の陰では、常にスキャンダルと健康問題につきまとわれた。ジャクソンさんは体形維持のためもあり極端な小食で知られ、心配した母親らが無理に食事を取らせていたともいわれる。またハードスケジュールの中、病気などで入退院も繰り返した。1984年にはCM撮影中に事故で大やけどを負い、皮膚移植手術を受けたが、その際、痛みを抑えるため薬物が病みつきになったとされる。

 93年には皮膚の色素を作るメラニンが失われていく「尋常性白斑」という皮膚病との診断を受けたほか、95年にはリハーサル中に脱水症や低血圧で倒れ、一時入院した。

 しかし、何より健康を悪化させたといわれるのが1年以上続いた性的虐待罪の裁判だった。2005年6月には背中の痛みを訴え、病院の緊急治療室に運び込まれ、「ストレスで病院に来るにも大変なほど病状は深刻」(ジャクソンさんの広報担当者)で、一時は裁判の続行が危ぶまれ、死亡説も流れたほどだった。

 度重なる整形手術による感染症の不安もあった。今年2月には英紙が、鼻を手術した際に抗生物質の効かないメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に感染、菌が全身に広がっており、病院に通っていると報道。関係者は「極めて健康」と打ち消したが、その後、7月に予定されていたロンドン公演が延期されるなど健康問題があらためて取りざたされていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090626-00000156-san-soci



マイケル・ジャクソン急死 原因は「薬物過剰摂取」?

人気歌手のマイケル・ジャクソンさん(50)が、自宅で突然の死をとげた。米国を初めとする世界中のメディアがこのニュースに大騒ぎだが、現段階では、死因については「心不全」ということしか分かっていない、それでも、広報担当者が薬物による影響を示唆するなど、すでに様々な憶測が広がっている。
リハーサルで骨折し、処方薬を服用していた

米ロサンゼルスの病院でジャクソンさんの死亡が確認されたのは、現地時間で2009年6月25日14時26分(日本時間同26日6時26分。以下はすべて日本時間)。この前後から、報道合戦が始まり、加熱の一途をたどっている。

死去からわずか22分後の6時48分には、地元紙のロサンゼルス・タイムズが、ジャクソンさんが病院に搬送されたことを速報。直後に、芸能サイト「TMZ」がジャクソンさんの死去を報じた。10時過ぎには兄のジャーメイン・ジャクソンさんが病院で会見し、死去を正式に発表した。会見では、事前報道どおり、死因は心不全だとしながらも、その原因については「司法解剖の結果までは分からない」とした。

そんな中、米メディアの注目は、ジャクソンさんの死因に集まっている。現段階で有力視されているのが「薬物の過剰摂取」説だ。ジャクソンさんのスポークスマンで弁護士のブライアン・オックスマンさんは、CNNに対して

「家族は死因について知らされていないし、そのことについて話せる状態ではない」

としながらも、7月にロンドンで予定されていたコンサートに向けたリハーサルで骨折し、処方薬を服用していたことを明かし、

「彼の服薬状況からすると、これ(急死)は必ずしも想定外ではなかった」

とまで述べた。

家族に「彼は薬の飲み過ぎだ」と伝えていた

さらにオックスマンさんは、CBSに対しては、さらに語気を強め、

「私は家族に対して、処方薬の服用と、取り巻きが服用を手助けしていることを警告してきました。彼が飲んでいた薬の量や、ここ数週間のジャクソンさんの状態については分かりません。ただ、家族に対しては、ここ数年間、『彼は薬の飲み過ぎだ』と伝えていました」

と、長年にわたる薬物の服用が背景にあるとの見方を強く示唆した。

ジャクソンさんをめぐっては、これまでに様々な健康問題が指摘されており、93年には、薬物依存が原因で、コンサートツアーを短縮したこともある。

また、今回の急死については、ストレスが背景にあると見方もある。例えばジャクソンさんの友人でもあった、自称超能力者のユリ・ゲラーさんは、英スカイニュースに対して、

「どの医者も言うことだが、ストレスが人を殺すこともある」

と、ジャクソンさんが背負っていた重圧が死をもたらしたのではないかとの見方を示している。

http://www.j-cast.com/2009/06/26044123.html


マイケル・ジャクソンに特別思い入れがあるわけではないですが。。。1980年代、zaraが青春時代と呼べる時期を象徴する人物の急死。それなりに感慨はあるなぁ。





















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2009年06月14日

金正日専属料理人藤本健二氏お笑芸人へ

金正日総書記の専属料理人・藤本氏が24日に芸人デビュー!

 北朝鮮の金正日総書記の専属料理人だった藤本健二氏(仮名、年齢非公開)が、お笑い集団「大川興業」のライブで芸人デビューすることが13日、分かった。ライブでは将軍様が爆笑し、後継者と報じられる三男の正雲氏もお気に入りだったというネタを披露するという。また正雲氏の写真騒動について、テレ朝側から事前に写真を見せられたことはないと明かした。

 ミサイル発射に核実験と、北朝鮮が暴走を続けるこの微妙な時期に将軍様の元料理人が、芸人デビューを果たすことになった。その舞台は、大川興業のライブ「すっとこどっこい」(24日、ミニホール新宿Fu−)。常に身の危険を感じ詳細な経歴も伏せて暮らしているわりには、大胆な露出となるが、今回の出演は自ら大川興業の大川豊総裁(47)に自ら頼み込んだものだ。総裁とは、雑誌の対談などで以前から交流があったという。

 売り込みをかけるほど自信を持つネタは「エアサックス」とでも言うべきものだ。中学校のブラスバンド部でドラムを叩いていたものの、サクソフォンを演奏したくなり顧問の先生に購入を要求。しかし予算の関係でかなわず、そこでハンカチをサクソフォンに見立てた「吹いてるフリ芸」を編み出したという。

 時は流れ、金総書記の専属料理人となった藤本氏が、かの地で得意の芸を初披露したのが「1989年ごろ」。平壌の迎賓館に最高幹部らが集うパーティーで流れるメロディーに合わせて演じたという。「将軍は口開けたまま目を丸くしていました。初めて見るスタイルの芸だったんでしょうね」。金総書記が拍手すると、満場の拍手が起きたという。

 その後、藤本氏の芸は金総書記の大のお気に入りになった。パーティーのたびに「藤本、ハンカチサックスあるか?」とリクエストされ「用意してございます」と応じるうち、ついには宴会のトリを務めるようになったという。

 当初はスタンダードナンバーの「ダニー・ボーイ」を“演奏”していた藤本氏だが「同じ演目では将軍も面白くないだろう」と気配り。日本に一時帰国した際、テナーサックス奏者のサム・テイラーが演奏する演歌のCDボックスを通販で購入してレパートリーを増やした。

 その後、藤本氏の芸は顔をドーランで黒塗りにし「襟裳岬」や「骨まで愛して」などを自在に演じるなどバージョンアップ。うわさの三男・正雲氏も「大喜びで聴いていた」という。

 大川総裁は「金親子を爆笑させたとなれば、世界中が注目するライブになる」と断言。今後のビジョンとして「ライブ当日には、エンタの神様のディレクターが来る。そのほか『爆笑レッドカーペット』『爆笑オンエアバトル』進出も目指します」と語った。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090614-00000014-sph-soci



藤本健二

(ふじもと けんじ)は金正日の自称元・専属料理人。「藤本健二」は仮名・ペンネームであり、本名・年齢は非公開。

自称によると、1982年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡り、寿司屋で働いていた。招待所へ寿司を作りに出張した際に金正日と知り合い、1989年に金正日の専属料理人として仕えたとされる。金正日の私生活を知る数少ない人物である。テレビ出演の際には、必ずバンダナとサングラスを付けている(北朝鮮からの殺し屋から身を守るためと言われている)。

2006年の北朝鮮の核実験を受けた制裁措置で、贅沢品のリストの作成にアドバイスを与えたと報道された。

現在、メディアが公開している金正雲の10歳の頃の顔写真は藤本が提供したものである。韓国のメディアに無断で写真を使われて以来、世界各国のメディアが写真を無断使用しているため戸惑っているという[1]。

著作

* 『金正日の料理人 ---間近で見た権力者の素顔 』扶桑社 2003年
* 『金正日の私生活---知られざる招待所の全貌』
* 『核と女を愛した将軍様---金正日の料理人「最後の極秘メモ」』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9
C%AC%E5%81%A5%E4%BA%8C



TVに出始めた頃の動画・・・



北に命を狙われてる人が芸人デビューとは。。。そういえば、最初のころはゴーグルみたいな馬鹿でかいサングラスで素顔はほとんどわからなかったけど、最近は色も薄い普通のサングラスになってるなぁ。


大川興行HP
http://www.okw.co.jp/








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posted by zara at 16:54| Comment(1) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

フライデーされたスライム乳画像

小向の巨乳をフライデーされロック座激怒

 東京・浅草ロック座で上演中の元アイドル小向美奈子(24)のストリップ姿が12日発売の写真週刊誌「フライデー」に掲載された。写真は黒のブラジャーとTバック姿、舞台上でひざまずき白いブラジャーを取り乳房を見せているものの計3枚。記事も含め4ページ特集している。

 浅草ロック座では盗撮行為と判断。法的手段も視野に入れて協議中だ。5日から29日までの今回の興行では盗撮行為に普段の6倍の罰金300万円を科すことを告知している。ストリップ劇場としては異例の持ち物検査とボディーチェックも実施。初日には胸ポケットに盗撮用カメラを仕込んだ男性が画像を消去の上、退場させられた。同劇場は「フライデーだけに許可を出した覚えはない。明らかにプロの仕業。入場者も多く、開場を早めるなど人気は上々だった。その分、細心の注意を払ってきただけに残念」。フライデー編集部は「記事に書いてあることがすべて」としている。

http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200906120009.html


小向の巨乳を「フライデー」 劇場側裁判で「罰金」要求?

「フライデー」が小向美奈子さんのストリップ写真を掲載したことについて、劇場側が「無断で撮った」と怒っている。「罰金」は300万円といい、法的手段を検討していると明かすほどだ。一方、フライデー側は、表現の自由を示唆しており、その取材手法を巡って主張が分かれている。

講談社、表現の自由をほのめかす

ピンク色のライトが、妖しくステージを浮き上がらせる。そして、ひざまずいた姿で、白いレースのブラをゆっくりと外し…。

「フライデー」の2009年6月12日発売号には、そんなシーンを撮った写真が2ページぶち抜きで載っていた。元グラビアアイドルの小向美奈子さん(24)が、東京・浅草ロック座で踊ったストリップ舞台だ。写真では、90センチのFカップという「スライム乳」がはっきりと写っている。

「出る」「出ない」と騒ぎになり、5日の初日はファンやマスコミが殺到。それだけに、劇場側は、無断撮影に神経を尖らせ、連日、入り口では異例のボディーチェックを行っている。撮影の「罰金」額も、通常の6倍の300万円にまで設定したほどだ。報道によると、カメラ所持が発覚して、退場させられたファンもいたという。

ところが、そんな監視網をどうくぐり抜けたのか、小向さんがフライデーされてしまった。写真誌では、スライム乳ばかりでなく、Tバックの後ろ姿など計3枚のステージ写真が掲載されている。

もちろん、興行の世界だけに、裏で何かある可能性はある。しかし、ロック座では、取材に対し、フライデーのステージ写真について不満をぶつける。

「無断で撮ったもので、とんでもないですよ。法的な手段を考えており、弁護士と今相談しています」

これに対し、講談社のフライデー編集長は、表現の自由をほのめかしながら、「記事にあることがすべてです。それ以外、特別にコメントすることはありません」とだけ言っている。
劇場の営業権との兼ね合いが問題

メディアの問題などに詳しい紀藤正樹弁護士は、フライデーの写真掲載について、まず次のような点を指摘する。

「だれが撮ったのか特定できなければ、訴訟は難しいでしょう。編集部のカメラマンが撮ったのか、客が写真を持ち込んだのか、ということもあります。罰金は、写真を撮った人に課せられるというのですから」

特定できないとしても、劇場が営業権侵害を訴えることはできる。とはいえ、紀藤弁護士は、表現の自由との兼ね合いをどう考えるかという問題が残ると言う。

「一般的に言いますと、国民の知る権利という点で、表現の自由が優先される可能性があります。売り上げが減少したとしても、それが掲載したことによるものか、人気が落ちたことによるものか、因果関係が証明できないと思います。講談社が勝つ可能性が高いでしょうね」

もっとも、営業権や人格権を認めて、10〜20万円の損害賠償を認められた判例もあるという。「劇場側が勝つ可能性がないとは言えません。しかし、同じくらいの慰謝料程度の額で、大きな金額にはならないと思います」

結局のところは、ステージ写真掲載のニュースバリューによる部分が多いと紀藤弁護士は言う。

コンサートの写真は、無断で撮っていいわけではありません。社会的にみて、記事の重要性が求められます。どうでもいいような写真なら、劇場側が勝つことになるでしょう。そのあたりは、裁判官の判断になりますね」

http://www.j-cast.com/2009/06/12043167.html


その画像、ここにあるけど。。。

写真

多分すぐ削除されるんだろうな。
しかし味をしめただろうな、ストリップ業界。



小向美奈子、全国行脚ある!? 総立ち7日目ルポ

大のストリップファン快楽亭ブラック

 グラビアアイドルからストリッパーに転向した小向美奈子(24)が登場するショーで、東京・浅草ロック座は連日にぎわっている。大のストリップファンで、たびたびロック座に足を運んでいる落語界きっての好事家、快楽亭ブラック(57)が11日、踊りっぷりを確かめに出向いた。その厳しい目に小向のステージはどう映ったか。

 7日目も平日の真っ昼間というのに満席で、立ち見が50人を超えていた。稼ぎ時の正月や大型連休を上回るほどで、客のほとんどが小向目当てといっていい。

 小向が登場する後半1時間は、バックダンサーにまわる場面でも小向が目立つ位置にいて、「明らかに小向を目立たせる構成」(ブラック)。

 ロック座のストリップは最近、フィギュアスケートの動きを取り入れた踊りが人気で、踊り子がイナバウアーのように体を反る大胆ポーズが“見せ場”となる。

 まだ慣れない小向は「踊り子の中でただ1人、不安定そうに体がグラついていた」が、ブーイングはなし。初々しさからか、声援が飛び、小向も笑顔で手を振って応えている。

 クライマックスで小向がブラを外す瞬間は、相変わらず客席から一斉に拍手とかけ声が起きる。「オッパイの大きさと張りは9人の踊り子の中でダントツ。露出は2分もなかったが…」と、ファンの反響にびっくり。

 こうなると、踊り子たちの間でやっかみはないのか?

 「それはない。他の子が小向に向けユーモラスな踊りを見せて、小向が笑顔で返す。あれはチームの仲がいい証拠」

 ロック座内の食堂には、踊り子出身の会長の指示で、いつも最高級の白米と辛子明太子が用意されている。おかずは日替わり。「踊り子は体が大事ということを会長自身が身に染みて分かっているから」だ。

 さて、小向のハダカを堪能したブラック師匠は、どう感じたか。

 「あっしは尻フェチなんで、パンティーを脱いで尻が見えるのが最後の一瞬だけ、というのは残念だった。でも、予想以上に見応えがあった。あんなに大勢の客が来るんだから全国行脚も当然あるだろう」

 小向は千秋楽の29日に会見する。“次の公演”に向けてのさらなる電撃発表があるのだろうか。

 ■快楽亭ブラック 1952年東京生まれ。69年、立川談志に入門。92年に二代目快楽亭ブラックを襲名して真打昇進。2005年7月には多額の借金を理由に立川流を除名される。日米ハーフだが英語は話せない。艶話や際どいエロを盛り込んだ新作が持ち味で、00年に芸術祭優秀賞受賞するなど実力派でもある。得意ネタは「オマン公社」「マラなし芳一」「文七ぶっとい」など。


http://www.zakzak.co.jp/gei/200906/
g2009061223_all.html














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2009年06月08日

全盲ピアニスト快挙 動画あり

全盲ピアニストの辻井さん、バン・クライバーン国際で優勝

 世界的演奏家を多く出している「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」の結果が7日(日本時間8日未明)、米テキサス州フォートワースで発表され、東京都在住の上野学園大3年、辻井伸行さん(20)が中国人ピアニストの張昊辰(ちょうこうしん)さん(19)と並んで1位となった。

 辻井さんは全盲で、国際的なピアノコンクールを全盲ピアニストが制覇したのは極めて異例。

 「まるで夢のよう。ショパンコンクールの時は本選に残りたいという欲があったが、今回は決勝でオーケストラと共演できればいい、という気持ちで臨んだのが良かったのかもしれない」。辻井さんは発表直後、関係者を通じて喜びを語った。

 同コンクールは、ピアノコンクールとしてはチャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールなどと並ぶ難関。過去の日本人入賞者は3人で、1969年の野島稔さんの2位が最高だった。辻井さんは書類選考で残った151人から、決勝の6人に残り、4日にショパンのピアノ協奏曲第1番、6日にラフマニノフの同第2番、7日はベートーベンのピアノ・ソナタ第23番<熱情>などを弾き、聴衆を熱狂させた。この模様はインターネットの公式サイトで流された。

 辻井さんは生まれた時から全盲だったが、音の感覚が鋭敏で、ピアノの多彩な音色にひかれて、4歳から本格的に習い始めた。7歳で全日本盲学生音楽コンクール・ピアノの部で1位に。10歳でオーケストラと初共演してプロデビューした。今までに国内のほかアメリカ、ロシア、フランスなどでも演奏会を開いている。2005年にはショパン・コンクールで「批評家賞」を受賞し、注目を集めた。

 授賞式を終えた直後の辻井さんは、読売新聞との電話インタビューに応じた。

 「とても興奮している。セレモニーが終わって、落ち着いてきたが。お客さんが熱心に聴いてくれ、応援もしてくれたので、持てる力を存分に出し切ることができた。今は何よりも両親に感謝している。プロとしてスタートラインに立ったばかりなので、自分の音楽にさらに磨きをかけたい」

 ◆「天から降る」音色◆

 辻井伸行さんのピアノは音が美しく、「天から降ってくるようだ」と指揮者の佐渡裕(ゆたか)さん(48)などから高く評されている。2007年に上野学園大学に入学。同年末から翌年3月にかけ、初の全国ツアーを行った。07年10月にCD「debut NOBUYUKI TSUJII」をエイベックスから発売している。

 ◆バン・クライバーン国際ピアノコンクール◆

 第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した米国人ピアニスト、バン・クライバーンの名前を冠し、1962年に始まった。

 原則4年に1回開かれ、今年が13回目。過去にラドゥ・ルプー、アレクセイ・スルタノフ、アレクサンダー・コブリンらが優勝している。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090608-00000356-yom-soci






辻井伸行さん:「一言でいうと夢のよう」と喜び語る

 全盲のピアニスト、辻井伸行さん(20)が米国・テキサス州フォートワースで開かれた「第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で日本人として初めて優勝した。ハンディをものともしない快挙。「一言でいうと夢のようです」と喜びを語った。

 辻井さんは5月23日に本予選を通過し、同29日と31日の準決勝も突破。決勝では6月4日にショパン「ピアノ協奏曲第1番」、同6日にラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」、同7日にベートーベン「ピアノ・ソナタ第23番<熱情>」、ショパン「子守歌」、リスト「ハンガリー狂詩曲第2番」の3曲を弾いた。

 決勝終了後、辻井さんは「ショパン国際コンクールに出場したとき(05年、批評家賞を受賞)はファイナリストに残りたいという欲が最初からあって、審査員にうける演奏をしなくちゃいけないと思っていました。今回は全くそういう欲がなくて、好きなプログラムを選んで演奏でき、そのことだけで十分うれしかった」と話していた。

 こういう“無欲”の姿勢での演奏が審査員や聴衆を魅了した。優勝決定後の記者会見では「両親、ホームステイ先のデビットソン夫妻、(在学する上野学園大の)横山(幸雄)先生をはじめとする先生の皆様方に感謝いたします。聴衆の方も皆温かく、楽しい3週間でした」と笑顔を見せた。アメリカのピアニスト、バン・クライバーンさんは「彼のことが大好きです。ワンダフル・ヤング・マン! 自分の名前を冠したコンクールに、彼のようなすばらしいアーティストが来てくれたことを非常に誇りに思います」と語った。

 休む間もなく、今後は公演が相次ぐ。6月13日に岩手県北上市のさくらホール、同17日に名古屋市の愛知県芸術劇場でロシア・ナショナル・フィルハーモニー交響楽団と共演。7月7日には東京・サントリーホールの「イマジン七夕コンサート」に出演する。
 ◇同じ全盲ピアニストの梯さんもエール

 辻井さんと同じ全盲のピアニストで、98年にロン=ティボー国際コンクール(パリ)で第2位に輝いた梯剛之さん(31)は「辻井君の音楽を聴いて、たくさんの人が癒やされると思うので、これからもじっくり時間をかけて、あせらずにがんばってほしい」とエールを送った。

 ウィーンで知らせを聞いた梯さんは「うれしい。僕が自宅で闘病生活をしていた13歳のとき、まだ言葉もあまりしゃべれない辻井君がお母さんに連れられて家に来てくれたんです。おもちゃのピアノを持ってきて、唱歌とかいろいろ熱演してくれた。そのときすごく才能のある子だなあと感心しました。僕がロン=ティボーで入賞したあとの日本のコンサートも聴きにきて楽屋を訪ねてくれ、『すごく良かったです』と言ってくれてうれしかった」と思い出を語った。

 また、「コンクールで入賞すると、ものすごく忙しくなる。今まで以上に大変だと思います。僕も自分の精神状態が追いつかなくなり、ずいぶん不安を感じた時期もありました。忙しくなればなるほど、静かな時間を確保してほしい。練習の合間に散歩したり、意識的に瞑想(めいそう)したり、ゆったりとした時を過ごすことによって、体も精神も休まるし、音楽も深まると思います」と今後を気遣った。




ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール

(The Van Cliburn International Piano Competition)は、アメリカで開催される国際的なピアノコンクール。

来歴

* チャイコフスキー国際コンクールの第1回の優勝者、ヴァン・クライバーンを祝して1962年より原則4年ごとに開催されている。開催地はテキサス州フォートワース。

* 設立当時、世界最高額の優勝賞金1万ドルを提供することでチャイコフスキー国際コンクールに負けない国際コンクールを目指した。フォートワースは富裕層が多数住んでいる都市で高額な資金提供が可能であった。当時ピアノ教師だったランクフォード夫人が運営していたが、その後石油資産の相続人マーサ・ハイダー夫人に代わり、ハイダー夫人はダラスとフォートワースの上流社会をまとめて多数のスポンサーを獲得、このコンクールを破格の規模にまで大きくして商業主義のスタイルをコンクール運営に持ち込んだ。その後、運営は指揮者アルトゥール・ロジンスキの息子、リチャード・ロジンスキが引き継いでいる。

* 優勝者には現在優勝賞金2万ドルの他にコンサート契約が多数含まれている。そのため優勝者は優勝後に多数のコンサートを続けていくうちに消耗させられて演奏家として大成しない、とまで言われた。その唯一の例外はラドゥ・ルプーで、彼は優勝後にコンサートを全てキャンセルして再び勉強のためモスクワに戻った。近年、この膨大なコンサートは以前に比べて数を減らされてはいるが、依然として優勝後3年間のツアー契約がついている。

優勝者一覧

* ラルフ・ヴォダペク(1962)
* ラドゥ・ルプー(1966)
* クリスティーナ・オルティーズ(1969)
* ウラディミール・ヴィアルド(1973)
* スティーヴン・デ・ グローテ(1977)
* アンドレ=ミシェル・シューブ(1981)
* ホセ・フェガーリ(1985)
* アレクセイ・スルタノフ(1989)
* シモーネ・ペドローニ(1993)
* ジョン・ナカマツ(1997)
* スタニスラフ・ユデニチ、オルガ・ケルン(2001)
* アレクサンダー・コブリン(2005)
* 辻井伸行、チャン・ハオチェン(2009)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%8
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2009年06月03日

小向美奈子ストリップ出る?出ない?動画あり

小向美奈子に裁判所が“ストリップ出演禁止令”

 覚せい剤取締法違反(使用)の罪で2月に懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けた元タレント小向美奈子(24)のストリップ劇場出演をめぐり、前所属事務所が2日までに、出演禁止を求める仮処分を東京地裁に申請した。東京地裁は同日午後、出演を禁止する決定を出した。小向は5日から東京・台東区の「浅草ロック座」への出演を予定し、話題を集めていた。

 仮処分を申し立てたのは、逮捕前の昨年9月まで所属していた事務所。5月22日に東京地裁に申請していた。

 事務所側は、小向が体調不良や精神的不安定で仕事への遅刻やキャンセルが続いたため、契約を解除。解雇後に小向との間で「当面の間、芸能活動を自粛する」「AV、ヌード関連には出演しない」などとする同意書をかわしていた。

 小向は、浅草ロック座の25周年特別興行のスペシャルゲストとして出演を予定。5月にロック座の公式ホームページで発表された。

 東京地裁は2日午後、申し立てを相当と認め、出演しないよう命じる決定を出した。小向本人は審理に1度も顔を見せていないという。同事務所の関係者は「同意書が守られず、小向本人と連絡も取れないので、致し方なく申し立てをしました。以前仕事で迷惑をかけた方への謝罪をまずすべきなのに、それをせず、芸能活動を始めることはやめるべきだと思いました」としている。決定が守られなかった場合は、東京地裁が強制執行する。

 今年2月の判決によると、小向は1月20日ごろ、東京都港区周辺で覚せい剤若干量を吸引。知人宅での覚せい剤所持容疑で1月22日に逮捕されたが、東京地検は「所持量が極めて少ない」として同容疑では起訴猶予処分とした。使用の罪で懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)の判決を言い渡され、「人生を変える最後のチャンスと思って、美奈子という人間を0からつくり直したい」などと涙ながらに話していた。

 しかし、判決後に埼玉県内の実家に戻った小向は、1週間ほどすると六本木の自宅を引き払うと言って家を出たきり、音信不通になったと、父親が一部報道で明かしていた。

 ◆小向 美奈子(こむかい・みなこ)1985年(昭60)5月27日、東京都出身。00年10月にグラビアデビュー。01年、「フジテレビビジュアルクイーン・オブ・ザ・イヤー」に。03年、第83回全国高校ラグビーの応援キャラクターを務めた。1メートル56、B86・W58・H83。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/
news/2009/06/03/01.html



小向美奈子のストリップ出演 地裁禁止命令も劇場「やります」

ストリップに出演する予定の元タレントの小向美奈子さん(24)が、前所属事務所の訴えで東京地裁から出演禁止命令が出ていたことが分かった。事務所側は覚せい剤事件後にしばらく自粛させたかったとも報じられているが、劇場側はあくまで出演させたい構えだ。
前事務所とは、ストリップなどに出ない同意書

「衝撃デビュー」

ストリップ劇場としては老舗として知られる東京・浅草ロック座。そのホームページを見ると、小向美奈子さんの名前の下にこう見出しが出ている。

それによると、小向さんは、2009年6月5日から29日まで、1日に4公演があり、二部の二景と五景で出演する段取り。顔写真やプロフィールはまだ出ていないが、「スペシャルゲストとして、あの『小向美奈子』を迎えたロック座25周年特別興行第一弾をお送り致します!」と大きくお知らせが出ている。

小向さんは、清純派グラビアアイドルなどとして活躍していたが、所属事務所のリップが08年9月24日で契約を解除。精神的に不安定で、遅刻や音信不通などが続いたというのが理由だった。その後、週刊誌で買春や整形強要がグラドル界に横行していると明かして話題に。しかし、覚せい剤使用が分かって逮捕され、09年2月26日に懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を受けている。

スポーツ紙各紙によると、小向さんは判決後に一時、普通の生活をしたいと言っていたものの、5月16日になって、浅草ロック座でストリッパーとして再出発することが明らかになった。

ところが、リップ側は、判決後にストリップなどに出ない同意書を小向さんと交わしたとして、5月22日に東京地裁に出演禁止を求める仮処分を申請。小向さんが出廷しないまま、地裁では6月2日、出演を禁止する仮処分を決定した。
「何人かのダンサーと踊る」

ストリップ禁止命令が出るまでの経緯について、所属事務所リップの担当者は、「報道されていることは事実です」と話す。

これに対し、浅草ロック座では、受付係が、「取材はお断りしています」としながらも、「こちらは出演する予定で準備をしています。仮処分命令のことは、分かりません」と言っている。

こうした状況で、小向美奈子さんがなぜストリップに出演しようとしたのかは分かっていない。各紙によると、小向さんは、保釈後にしばらく埼玉県内の実家にいた。が、判決後1週間で六本木の自宅を引き払うなどと父親に言って家を出てから、所在が不明だ。携帯電話の番号も変えており、父親も3か月近く音信不通だったといい、5月25日に「心配しないで」と連絡があったという。そして、「何人かのダンサーと踊る」とも言ったと報じられている。

ところで、小向さんとリップ側は、ストリップなどに出ないとする同意をなぜしたのか。

スポーツ紙各紙では、リップ側は事件を起こした小向さんが当面芸能活動を自粛すべきとし、小向さんはこれ以上迷惑をかけられないと応じたともされている。

芸能事務所の契約にも詳しい紀藤正樹弁護士は、同意書を交わしたことについて、「小向さんが反省して二度と犯罪をしないと言っており、事務所も出直してくれるのだったらと、新しい所属契約をしたのではないですか」とみる。そのうえで、こう指摘する。

「規約では、事務所を通さなければ副業などをしないとなっているはずです。契約の拘束力は強く、小向さんが出演したら契約違反になり、損害賠償の対象になるでしょう。ただ、劇場側は、小向さんと契約したときにこのことを分かっていないとすれば、責任は問われないはずです」

小向さんは強行出演するのだろうか。

http://www.j-cast.com/2009/06/03042511.html


裁判所まで巻き込んだマッチポンプか???










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2009年05月25日

カウス脅迫事件犯人は前田五郎?

中田カウス事件 身内の犯行か…前田五郎 聴取へ

◆ 脅迫文が郵送された件で浮上、本人否定も筆跡ソックリ ◆

 漫才コンビ「中田カウス・ボタン」の中田カウス(59)の自宅に今年4月に脅迫文が郵送された件で、同じ吉本興業に所属する漫才コンビ「コメディNo.1」の前田五郎(67)が捜査線上に浮上していることが23日、分かった。関係者によると、吉本側はすでに筆跡鑑定の結果などを大阪府警南警察署に提出。近日中にも事情聴取される可能性が高まった。前田本人は否定しているものの、活動停止処分も決定。南署では今年1月のカウス襲撃など一連の脅迫事件への関与も含め捜査を進めている。


◆ カウス脅迫事件の経緯 ◆

 ▼1月9日 午後8時45分頃、大阪・ミナミの路上で、乗用車の助手席に乗ったカウスを原付に乗った男が金属バットで襲撃。窓ガラスが割られ、カウスは顔や腰に2週間のケガを負った。NGKでの出番を終えて帰宅途中だった。

 ▼1月10日 NGKに「今後もカウスを出演させるなら、昨日のようなことではすまへんで」と男の声で脅迫電話。「ヤマモト」を名乗り、入場客へ危険を及ぼすような内容も告げる。

 ▼1月12日 舞台を2日間休演したカウスがNGKの出番で復帰。待ちかまえた報道陣に「身内には気を付けや」などと話し、舞台上では「犯人が分かりました。相方のボタンです」などと襲撃をネタにして笑いを誘う。

 ▼2月12日 大阪・茨木の少年院で講演。「実行犯に恨みはない。いつかオレがやったと話しにきてほしい」など、90分にわたり熱弁をふるう。

 ▼4月3日 大阪府内のカウスの自宅に脅迫状が届く。

 ▼4月5日 吉本興業が、脅迫状がカウス宅に届いていたことを発表。差出人が「山本」となっていたことも明らかに。

 ▼4月6日 カウスが会見。脅迫状には吉本興業役員らの名前も書かれており「これは企業脅迫」と怒りのコメントをした上で「恨まれる覚えはない。いたずらならここ、本気ならここ、というのはある」と脅迫状を送った犯人の心当たりを示唆する。

  ★前田 五郎 1942年(昭17)4月8日、大阪市出身。1963年に吉本新喜劇に入団。坂田利夫と1968年1月に漫才コンビ「コメディNo.1」を結成。コメディNo.1として上方漫才大賞・大賞(79年)や同新人賞(70年)、上方お笑い大賞金賞(72年)、NHK上方漫才コンテスト優秀話術賞(70年)などを受賞する。趣味は写真撮影。これまでに撮りためた写真がNGKのロビーや、吉本笑店街で展示されたこともある。

http://www.sponichi.co.jp/osaka/soci/
200905/25/soci220627.html



吉本興業が前田五郎のカウス脅迫事件関与報道を否定

 吉本興業は25日、同社所属タレントの前田五郎が、今年4月に起きた中田カウスおよび同社役員の脅迫事件に関与していると一部新聞、週刊誌で報じられた件について、その報道内容を否定した。同社は同日付けの公式ホームページで「弊社所属タレントの前田五郎が犯人であると断定するかのような報道がなされておりますが、弊社においても、警察においても、そのような断定をしている事実はございません」と発表した。

 同社は前田の休養については「本日付の一部新聞、週刊誌等において、本年4月3日に発生した脅迫状事件(中田カウス及び弊社役員に対する脅迫事件)に関連する報道がなされ、世間をお騒がせいたしておりますので、本人と相談のうえ、当面の間、タレント活動を休養することと致しましたのでお知らせします」と認めた。

 しかし、脅迫事件への関与には「弊社においても、警察においても、そのような断定をしている事実はございません」と、これを否定。事件については「全て警察にお任せしておりますので、詳細について弊社からのコメントはございませんが、弊社としては、警察の捜査に最大限の協力をしており、一刻も早い犯人逮捕を望んでおります」としている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090525-00000016-oric-ent



NHK 活動休養を受け前田出演分を差し替え

 NHK大阪放送局は25日、制作する娯楽番組「バラエティー生活笑百科」について、吉本興業の漫才コンビ「コメディNo.1」の前田五郎(67)が出演する6月6日放送分を、収録済みの番組に差し替えると発表した。29日に収録予定のラジオ番組「上方演芸会」についても、代わりの出演者で収録する。

 前田については、漫才師中田カウス(59)への脅迫状送付事件に関与していたとの一部報道を受け、吉本興業が芸能活動を休養させると発表していた。

 バラエティー生活笑百科はNHK総合で毎週土曜日の昼に全国放送する人気番組。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash
/KFullFlash20090525095.html



中田カウス・ボタン

(なかたかうす・ぼたん)は、漫才コンビ。所属事務所は吉本興業大阪。コンビ結成は1969年3月。

なんばグランド花月劇場(NGK)で大トリをとる大御所である。

略歴

二人の出会いはカウスがアルバイトをしていたバーの常連客がボタンであった事から。日に日に仲良くなった頃カウスからボタンを誘いコンビ結成。

その後は遊園地やストリップ劇場などで漫才を披露。若手の頃はアイドル並みの人気を博した。漫才師はコンビで揃いのスーツを着ることが定番だった時代に、はじめてジーパンとトレーナーで演じた[1]。ネタ作りも当時の女子高生にウケるネタを研究して作るなど、若者にターゲットを絞った漫才を発表し続ける。現代では当たり前のように存在するアイドル漫才師のパイオニアと言える存在であった。

漫才・ネタの特徴としては、カウスの、ボタンの私生活や過去を引き合いに出しておちょくる(からかう)ようなボケと、それに対するボタンのノリツッコミ。

メンバー

* 中田カウス(なかた - 、本名:野間 勝道、1949年6月29日 - )

ボケ担当。血液型はA型。愛媛県今治市(旧越智郡伯方町)出身。2002年からM-1グランプリ決勝戦の審査員を務めている。出演者のチェックは予選から行っており、2005年は1回戦から舞台袖ではなく、客席側からチェックしているのが目撃されている。
ひょうひょうとした語り口でボタンに毒舌を吐くのが特徴。「悪戯の帝王」の異名を持ち、ターゲットになった芸人は浜田雅功から人生幸朗まで幅広く、ターゲットとして一番狙われたのは坂田利夫である。
横山やすし、オール巨人、チャーリー浜と並ぶ弟子育成の厳しさで知られるが、私生活のだらしなさから「弟子には厳しいが自分には甘い」と非難を受けることもある(借金問題が表面化し、芸能活動を自粛する事態に追い込まれた時期もある)。
投機で成功した時期があり、その頃は「金持ちで真っ当な」カウス、「貧乏で犯罪者チックな」ボタンというパターンでボケを担当していた。現在でも、「金持ち」は抜いたが、真っ当そうに見えて不思議なボケを使う。
芸人論には一家言ある。1980年代後半に上岡龍太郎を中心として「楽屋をのぞかせる」という演出が多用されたが、「芸人が見せてはいけない部分」と論じて、痛烈に批判した。
実は大のM1嫌いである[要出典]。
ビートたけしと親交が深く、たけし司会の番組でしばしばゲスト出演する。カウスは「おじさん」とよび、たけしは「あんちゃん」と呼び合う仲。
吉本興業特別顧問に就任したが、2007年4月、週刊誌等により暴力団との関係を問われ、本人は否定しているもののファンを騒がせたとして同職を退任した。これを受けてNHKは、カウスが出演する『バラエティー生活笑百科』の4月28日と5月5日放送分を無期限放送延期。また、週刊誌等で吉本興業元会長に対してカウスが恐喝した疑惑や吉本興業現経営陣の不正支出疑惑が浮上、吉本興業株主総会でも取り上げられ、総会の場で社として調査を行うことを約束。7月31日に吉本興業が発表した調査結果によるとカウスの恐喝疑惑に関しては不問、吉本興業自体の不正支出に関しては「不正支出はあったものの、既に和解している可能性が高い」とし、問題が無いことを強調したものの、11月21日大阪府警捜査4課が吉本興業元会長に対する恐喝容疑でカウスを任意で事情聴取したことが明らかとなった。また、M-1グランプリ2007に審査員として出演している件について放送局(ABC)へ10件近い問合せがあった[2]。
2009年1月9日午後8時頃、大阪市中央区堺筋で、カウスを助手席に乗せた右ハンドルのベンツが信号待ちをしていたところを左後方から黒色タオルで覆面をし、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が近づき、助手席の窓ガラスを金属バットでたたき割り、カウスは頭部をバットで数回突かれ、頭に軽傷を負った[3]。

* 中田ボタン(なかた - 、本名:藤長 明、1948年4月12日 - )

ツッコミ担当。血液型はAB型。香川県小豆郡小豆島町出身。若手時代はアイドルタレント並みの人気があったが、私生活上で主に借金や逮捕を原因とした様々な伝説(借金を完済し、暫くは借りる必要がなかったのに、今後の『張り』のためにわざわざ会社から借金をした、など)を形成。結果としてその多くが今日のネタの基となっている。
1988年10月27日、同年4月23日に大阪府藤井寺市内で山口組系暴力団の開いた賭博に客として加わっていた事がわかり、賭博容疑で逮捕された。ボタンは容疑事実を全面的に認めたため同日夕方釈放されたが、しばらく謹慎処分となった。ここから、謹慎処分で借金漬けのボタンを、裕福なカウスが笑う、というパターンが生まれた。
あまりの借金伝説のため、かつて明石家さんまが、斉藤由貴『卒業』の歌詞の一部を「生活苦の中田ボタンを〜」と替え歌にして歌っていた。
漫才のネタでは「嫁さん」と「奥さん」が一人ずついるらしい(カウス談)
浜田雅功が若手の頃、ボタンのツッコミを舞台の袖から見て勉強していた。

中田カウスのイタズラ伝説

* 毛布事件

ある日の飛行機で人生幸朗と乗り合わせたカウスは、人生幸朗が寝ているスキに飛行機に備え付けてあった毛布を人生幸朗のカバンの中へこっそりと入れた。その後、深夜3時頃に人生幸朗宅へ「航空会社の者ですが、うちの毛布が無くなったのですが…」という電話を入れる。「こんな時間に相手を誰だと思って電話してるんだ!」と怒った人生だが、カバンの中を調べると本当に毛布が入っており、一転して平謝りしだした。

* メガネ赤塗り事件

昼寝中の人生幸朗のメガネのレンズを赤のマジックインキで塗りつぶし、カウスは耳元で「火事や!」と叫ぶ。目を覚ました人生幸朗は目の前が真っ赤な上に強度の近眼だったので何がなんだか分からず、慌てふためく一方だった。

* 首吊り事件

当時住んでいたアパートにあった木に、深夜にこっそり縄をくくりつけ、マネキン人形の首をそれに引っ掛けておいた。暗闇の中からそれを見たアパートの管理人は腰を抜かし、庭にあった池へ落ちてしまった。

* 今いくよ・くるよ事件

テレビ局のプロデューサーを装い、今いくよ・くるよに「一生懸命に漫才の稽古している姿を撮りたいので、正月海辺で晴れ着を着て稽古していて下さい。」と電話。実際に晴れ着で稽古をしていたいくよ・くるよを船に乗って見て笑っていたという。

* ホテルプラザ花火事件

かつて大阪市北区の朝日放送横にあったホテルプラザの一室で愛人と花火を打ち上げスプリンクラーと非常ベルが作動し大騒動

* イタズラ電話

毛布事件から推察される通り中田カウスは、イタズラ電話の常習犯でもある。芸人仲間の集る深夜のスナックから横山やすしの自宅へ電話し「明日の南海電車の始発の時間を教えて下さい。」やすしは激怒し「誰や!!横山と知っての狼藉かコラ!!」一同腹を抱えて忍び笑う・・

* 竜介バースデーケーキ事件

新助の相方である竜介(故人)へ、バースデーケーキをプレゼント。しかし、そのケーキに、割り箸で押し込んだヘアを仕込む。知らずにバースデーケーキを受け取った竜介は、感激して「みんな、ありがとう」と涙ながら、ケーキをほおばったという。しかし、周囲の芸人は、笑いをこらえるのに苦労したという。

師匠

* 師匠に付かずに独自の活動をしていた頃、カウスのアルバイト先のバーに客として現れた中田ダイマル・ラケットと親しくなり劇場に招待される。劇場でのダイマル・ラケットの姿に感動し弟子入りする事になる。
* 一般に「師匠は中田ダイマル・ラケット」とされるが、正しくはその弟子の中田アップ。前名の中田チャック(相方は中田ファスナー)時代に吉本の専属になり、道頓堀角座のトリから外された師匠を憂い、師匠を吉本に移籍させた張本人。相方は中田ダウン。既に引退。
あまり有名でないためか、通常カウス・ボタンの師匠は大師匠で名付け親でもあるダイマル師とされている。ボタンの自作サイトでも、師匠はダイマルと明記されている。

レギュラー番組

* バラエティー生活笑百科(NHK総合)
* M-1グランプリ(朝日放送) - 中田カウスのみ
* 中田カウスのお笑い110番(ラジオ大阪)- 中田カウスのみ

不定期番組

* 笑点(日本テレビ)(ゲストとして出演)

受賞歴

* 1971年第6回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 新人賞
* 1972年昭和46年度 第2回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀話術賞
* 1990年第25回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 奨励賞
* 1990年第19回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 審査員奨励賞
* 1991年第26回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 大賞
* 1995年第24回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 大賞
* 2001年第36回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 大賞
* 2005年第40回 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 大賞

主な弟子

カウス

* 中田尚希・祐士→中田なおき
* 中田新作(漫才作家)

他、外国人のピン芸人や、若手女性コンビなど多数。 なお、若き日の大木こだま(当時は素人・西山利幸青年)が、当時駆け出しの漫才師であったカウスに弟子入りを志願したことは有名な話。こだまは、今なおカウスに私淑している。

ボタン

* 中田ハチ・マキ(ハチは中田はっさく)
* 中田はじめ・圭祐→中田はじめ
* ライム・ライト(ライム中田・ライト坂田)→別所清一(ライム中田)
* 海原やすよ・ともこ
* 中田尚希・祐士→中田ゆうじ(笑ハンティング)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%
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前田 五郎

(まえだ ごろう、本名・前田 邦弘(まえだ くにひろ)、1942年4月8日 - )は、大阪府大阪市出身のお笑い芸人で、坂田利夫との漫才コンビ「コメディNo.1」のツッコミ担当。初芝高等学校卒、大阪商業大学中退。所属事務所は吉本興業。長女の前田真希は2005年に、次女の前田まみはその翌年に、吉本新喜劇に入団した。

経歴

* 浅草四郎に弟子入りし、1963年、吉本新喜劇入団。新喜劇要員として船場太郎らと新境地を開き主に脇役として活躍した。その後1967年1月、坂田利夫と共に「コメディNo.1」を結成。
* "アホの坂田"こと坂田の単独での活動が多く、「コメディNo.1」としての活動はなんばグランド花月など舞台での活動が中心である。朝日放送テレビ「あっちこっち丁稚」(坂田、間寛平等出演)では舞台となるカステラ店の主人役で出演した。

人物

* 趣味は写真。吉本新喜劇の俳優や若手芸人たちの舞台裏などを撮影し、展覧会を開いたこともある。現在でも、NGK公式サイトにおいても様々な写真を展示している。そのなかで自らのコンビ仲の悪さをネタにしている。
* オール巨人と同じように日々体を鍛えているが、その実は運動が苦手で吉本の運動会でMr.オクレに砲丸投げで負けた事がある。
* 趣味の麻雀の腕前は吉本でも指折りで、よしもと麻雀倶楽部という番組の司会を務めたこともある。

弟子

* 前田一球・写楽(現在は一球が廃業し、写楽のみ現役)
* 前田竹千代(故人:チャンバラトリオの元メンバー)
* 前田犬千代(廃業)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D
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2009年05月18日

松本人志電撃デキ婚 動画あり

ダウンタウン松っちゃん電撃デキ婚!

 “最後の独身大物芸人”、ついに結婚-。人気コンビ・ダウンタウンの松本人志(45)が17日、結婚したことを発表した。所属のよしもとクリエイティブ・エージェンシーを通じマスコミ各社にファクスで報告した。お相手は東京在住の26歳のOL。現在妊娠しているという。独身貴族に終止符を打った松本は、「(会見は)照れくさいのでやめておきます」と、松本流に喜びを表現した。

  ◇  ◇

 芸能界屈指の独身超大物がついに年貢を納めた。生涯結婚しないともみられた松本だったが、意外にもできちゃった婚-。すでに入籍したお相手は、26歳の女性で、東京在住。OLとして働いており、関係者によると「ごっつい(かなりの)美人」という。所属事務所は年内に出産予定と説明しており、現在、妊娠3〜4カ月とみられている。

 松本の周辺によれば、松本は5月初めに関西の実家に帰省、兄の隆宏さん(48)ら家族に「結婚する」と報告した。その後婚姻届を提出したという。

 この日夜、松本は事務所を通じてファクスで電撃婚を報告。

 「このたび、私、松本人志は結婚をいたしましたので、ご報告させていただきます。お相手は一般の方になり、現在妊娠中です。デリケートな時期なので、できるだけそっとしといて欲しいです。記者会見はした方がいいと思うのですが、照れくさいのでやめておきます」。40代半ばでの初婚に気恥ずかしそうな文面ながら、喜びが伝わるコメントだった。

 “お笑い界のカリスマ”だけに、恋愛遍歴も華麗だった。女優・常盤貴子(37)やタレント・優香(28)、SPEEDのhiro(25)ら美女と浮名を流し、そのたびに結婚も噂されたが、ゴールインには至らなかった。最近では昨年6月、元お天気キャスターの伊原凛さん(26)との熱愛が報じられた。伊原は昨年9月に所属事務所を退社しており、その際「松本さんと結婚します」と話したという証言もある。後輩芸人にも好かれるおとこぎの持ち主だ。

 毛ジラミをうつされたことを告白するなど、一部では“風俗”の話題を提供したこともあった松本。幼いころからの友人でもある相方・浜田雅功(46)は、「おめでとうございます。あなたも人の親ですか。もう五反田には行けませんね」とすべてを知る相方ならではの言葉で松本を祝福した。松本の家族も大喜びだという。

 この日、松本は都内のスタジオでレギュラー司会を務める「HEY!HEY!HEY!」の収録に参加。親しいスタッフに結婚を祝福された。収録を終え、午後8時すぎにスタジオを後にしたという。

 新作映画「しんぼる」も完成、仕事面は変わらず順調な松本。愛する伴侶を得た上に2世を授かる「Wおめでた」で、ますますパワーアップすることは間違いなさそうだ。

http://www.daily.co.jp/gossip/2009/05/18/0001925716.shtml


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松ちゃんが結婚! 兄・隆博さんもオリジナルソングで祝福!

 17日夜、ダウンタウンの松本人志が一般女性との結婚を発表した。お相手は、昨年9月まで日本テレビ系「ズームイン!! SUPER」でお天気キャスターとして活躍した元タレントの伊原凛さん。

 伊原さんは現在妊娠中で、松本人志は「デリケートな時期なので、できるだけそっとしといて欲しいです。記者会見はした方がいいかと思うのですが、照れくさいのでやめておきます」とFAXを通して発表。

 相方・浜田雅功も「おめでとうございます。あなたも人の親ですか。もう五反田には、行けませんね」と祝福。そのほか、多くの著名人がメディアを通して驚き&祝福のコメントを寄せている。

 そんななか、松本人志の兄・隆博さんも自身のブログで実弟の結婚を報告。「兄としても大変うれしく思っています。子供ができたら、そんな話題で話ができたらなと、今から楽しみしています。本人には、『ぜひ子供と公園でキャッチボールとかフリスビーとかしてあげて欲しい』と言ったんですが、松本家は運動はほとんどしないのでせめて自宅で一緒にプラモデル作るとかして、パパぶりを出して欲しいと思います。おめでとう」という温かいコメントのほか、自身が手がけた子育て支援ソング「親友」を公開し、ふたりの結婚を祝福している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090518-00000018-rbb-ent



◆ スッキリ!!

松本人志「デキ婚じゃない」 その理由と経緯


スポーツ紙がこぞって1面で大きく扱ったダウンタウンの松本人志(45)の電撃結婚について、芸能リポーター井上公造が「整理してみます」と言って説明。

それによると、相手は各紙が断定的に報じている伊原凛さん(26)=元「ズームインSUPER!!」(日テレ系)のお天気リポーター=で間違いない。2人は2006年TBSの番組で共演。翌年、合コンで再会し、伊原さんの方から「私のこと覚えていますか」と声をかけて交際が始まった、とのこと。彼女は昨08年9月、芸能活動をやめる。11月に2人は結婚を決意したという。したがって、現在、妊娠中だが、伝えられるような『デキ婚』ではない、と井上は結論づける。

番組は、松本の兄の「とてもきれいな人。母の秋子に似て本当にしっかりしている」という、花嫁についての談話を紹介する。「日刊スポーツ」に掲載された写真を見ると、これまで噂になった女優、タレントに引けを取らない美貌。

テリー伊藤は「コンサバ女性っぽいですよね。(松本は)意外とちゃんとした人を選んで、バランスをとったな、という感じ。家にしっかり者がいると、外でまたハチャメチャできるよね」とコメント。

加藤浩次が「45才か、勝谷さん48才ですよね」と振ると、松本と同じ兵庫・尼崎市出身だという勝谷誠彦は「わかりますよ、松本さんの気持ち」として、「高度成長期のゴチャゴチャした汚い空気の中で育った。お母さんは大事な存在で、回りのゴチャゴチャしたところから守ってくれる」と話す。テリーが「勝谷さんはお父さんと似た人と結婚しますよ」と、スタジオ陣の笑いを誘っていた。

http://www.j-cast.com/tv/2009/05/18041263.html






伊原 凛

(いはら りん、1982年10月24日 - )は、日本のタレント。

略歴

* 東京都出身。
* 聖心女子学院中等科・高等科卒業。フラワーアレンジメント専門学校を経て、日本テレビ系「ズームイン!!SUPER」に出演。同番組にてお天気キャスター、天気予報を担当した。
* 芸能事務所オスカープロモーションに所属。左利き。
* 2008年9月30日を以て、「ズームイン!!SUPER」を卒業。
* 2008年9月30日以降、事実上の芸能活動休止。

過去の主なテレビ出演

* 日本テレビ系「ズームイン!!SUPER」お天気キャスター (2006年4月〜2008年9月)
* NHK BS「BSスタイル」

過去の主なラジオ出演

* FM NACK5「ACCESS TO YOU」パーソナリティー(2007.10-2008.9)

過去の主な雑誌

* 小学館「CanCam」
* 小学館「DIME」
* 光文社「JJ(小冊子)」
* デジタルカメラマガジン
* STA★COLLE(スタコレ)

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E4%BC%8A%E5%8E%9F%E5%87%9B



伊原凛のリンリン予報
http://www.ntv.co.jp/zoomin/blog/rin/





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2009年05月17日

小向美奈子 ストリップで再起 動画あり

小向美奈子、ストリップ劇場で再起決定

 今年1月に覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕され、執行猶予付き有罪判決を受けた元グラビアアイドルの小向美奈子(23)がストリップ劇場で再起することが16日、分かった。

 小向がスペシャルゲストとして出演するのは6月5日から東京・浅草ロック座で行われる「ロック座25周年特別興行第1弾」。ロック座はサンケイスポーツの取材に「出演は事実ですが、どんな演出になるかは担当者がいないので分かりません」と答えたが、関係者は「本人は脱ぐ覚悟のようです」と話しているそうで、ストリッパーとして“裸一貫”の再出発を図ることになりそうだ。

小向は2月26日の判決直後、「人生を変える最後のチャンス。同世代の女の子のようにバイトをしたり普通の生活をしたい」と話していた。身長1メートル56、B86W58H83の小向は胸のやわらかさが自慢。「スライム乳」と称していたが、踊り子さんにおさわりは厳禁!?

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/
celebrity/254625/



裸で出直し!小向美奈子 ストリップデビュー

元タレントの小向美奈子(23)がストリップでデビューすることが16日、明らかになった。小向は覚せい剤を吸引したとして今年1月に、覚せい剤取締法違反(使用)で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けている。

 2月26日の判決直後には、東京地裁の前で「人生を変える最後のチャンスと思って、美奈子という人間を0からつくり直したい。同世代の女の子のようにバイトをしたり普通の生活をしたい」と涙ながらに語っていた。

 その転機を誓ってから約3カ月。6月5日(金)から浅草ロック座(東京・台東区)でスタートする「ロック座25周年特別興行第一弾」のスペシャルゲストとして小向の出演が決定。関係者は「本人が脱ぐ」と小向がストリッパーとして登場し、実際にショーを行うことを明らかにした。

 文字通り“裸一貫”での出直し。多数のグラビア写真集も発売した小向の姿を一目見ようと、浅草ロック座に多くのファンがかけつけるのは間違いなさそうだ。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash
/KFullFlash20090516107.html













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フライデーされたスライム乳画像



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2009年05月06日

Bディラン英チャートで40年ぶり首位 動画あり

B・ディランの最新作、英チャートで40年ぶり首位

 米ベテラン歌手ボブ・ディランの最新アルバムが、今週の英アルバムチャートで初登場1位を飾った。オフィシャル・チャート・カンパニー(OCC)が発表した。ディランが同チャートで1位になるのは約40年ぶり。
 今回1位となったのは33枚目のスタジオアルバム「Together Through Life(原題)」。
 ディランは英チャートでこれまで7枚が首位になっているが、前回は1970年リリースの「新しい夜明け」だった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090506-00000500-reu-ent



これだよ。。。








ボブ・ディラン


(Bob Dylan, 1941年5月24日 - )は、アメリカのシンガーソングライター・詩人・作曲家。親のつけた名前は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だったが、のちにみずから正式に改名して本名もボブ・ディランである。「ボブ」はロバートの愛称、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディロンから取ったとも述べている。

人物 [編集]

アメリカを代表するシンガーソングライターの一人として、デビュー以来多大なる影響を各世代の人々に与えてきた。21世紀を迎えた現在でも、年間100公演ほどのライブ活動を中心にして第一線で活躍している。詩人としてノーベル文学賞にノミネートされるなど、20世紀半ば以降の世界文化において極めて重要な位置を占めている。作品についてはボブ・ディランの作品を参照。

しばしば「世代の代弁者」と崇められ、メッセージソングやプロテストソングの旗手と評される(たとえば、ライオネル・リッチーは「時事的な歌に運命を開いた人」とボブを紹介している)。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている[1]。

英セント・アンドリューズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべき」と後進のアーティストに提言するなどの啓蒙によっても、アメリカ文化を体現している。

経歴 [編集]

デビューまで [編集]

ミネソタ州ダルースに生まれる。父方と母方の祖父母はそれぞれ、リトアニアやロシア、ウクライナからの移民である。父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティ)は、小規模だが絆の固いダルースのユダヤ系の一員だった。

幼少時より家にあったピアノを独学で習得。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーにあこがれた少年としてロックバンドを組み、音楽活動を始める。また、ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている。また、ランボー、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人にも、表現技巧など創作上の影響を受ける。

1959年、州の奨学金を得てミネソタ大学に入学するも、半年後には授業に出席しなくなる。大学を中退してニューヨークに出てきた彼はフォーク歌手ウディ・ガスリーと出会い、その影響によりアメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深める。ガスライトといったコーヒー・ハウスなどでアコースティックギターの弾き語りをしていたが、やがてジョン・ハモンドにその才能を見出され、ハリー・ベラフォンテやキャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評された[2]ことをきっかけに、1962年に自身のアルバム『ボブ・ディラン (Bob Dylan) 』でレコード・デビューする。しかし、売上は5000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった。

1960年代

当初はトラッド・フォークやブルースを中心に歌っており、自作曲は少なかった。やがて、プロテストソングやトピカルソングなどメッセージ色の強い曲を作るようになり、「風に吹かれて ("Blowin' In The Wind") 」、「時代は変わる ("The Times They Are A-Changin'") 」などの作品を発表した。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいて、ディランは「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになった。

このころ、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱 ("Mixed-Up Confusion") 」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された。このシングルは1967年にベネルックス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)で公式リリースされているが、このバージョンは『傑作 (Masterpieces) 』に収録されたものの、日本でCD復刻されていない[3]。ライブ・アルバム "Bob Dylan In Concert" も発売見送りとなった[4]。フォークウェイズ・レーベルからは"Blind Boy Grunt"なる変名で「Only A Hobo - Talkin' Devil」、「John Brown」を発表しているほか、ニューポート・ブロードサイドでは「Ye Playboys And Ye Playgirls」が発表された[5]。

1963年に2枚目のアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン ("The Freewheelin' Bob Dylan") 』をリリースしたが、これも数曲が差し替えられた。アウトテイクのいくつかは『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集 ("The Bootleg Series, Vols. 1-3") )』に収録されたが、 "Rocks And Gravel" は日の目を見ていない。

またこのころから、ディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン ("Mr.Tambourine Man") 」はビルボードで1位を獲得している。ピーター、ポール&マリーによる「風に吹かれて」は2位、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo") 」が10位を獲得した。「悲しきベイブ ("It Ain't Me Babe") 」「はげしい雨が降る ("A Hard Rain's A-Gonna Fall") 」「くよくよするなよ ("Don't Think Twice") 」「見張塔からずっと ("All Along The Watchtower") 」「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」「いつまでも若く ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。

1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響からか、コンサートやレコーディングでも常に少し酔っ払ったような状態になっていた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残したのはディランに関わったのがきっかけとされている。なかでも65年頃のジョン・レノンが熱病のごとく傾倒し、作風から精神面、スタイルに至るまでディランに触発された(例:[1]、[2])。またジョージ・ハリスンとは後に生涯に渡る友情を築くこととなる。

一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム ("Bringing It All Back Home") 』、『追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 』、『ブロンド・オン・ブロンド ("Blonde On Blonde") 』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した[6]。

従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ賛否両論を巻き起こした。なかでも65年のニューポート・フォーク・フェスティバルにおけるディランはバック・バンドを従え数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー ("") 」を涙ながらに歌いあげた、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説であり、実際には歓声もあって、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコギで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。

このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらから絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。

中でもアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン("Like A Rolling Stone")」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「Help!」)。その他「寂しき4番街 ("Positively 4th Street") 」が7位、「雨の日の女 ("Rainy Day Woman #12&35", Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、[7]。"「アイ・ウォント・ユー ("I Want You") 」が20位、「女の如く ("Just Like a Woman") 」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、更に多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。

1965年から66年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスを従えワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるディランの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール ("The "Royal Albert Hall" Concert") 』(1998年)[8]、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている[9]。『ロイヤル・アルバート・ホール(Live 1966)』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした。[10]

またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にディランは声が大きく変化した。

この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ ("Can You Please Crawl Out Your Window?") 」のアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。

こうして最初の絶頂期を迎えていた1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊でオートバイ事故を起こして重傷を負い、すべてのスケジュールをキャンセルして隠遁。死亡説や再起不能説まで流布する。当時、ドラッグとコンサートツアーに明け暮れていたディランにとってはかえってよい休養となり、ウッドストックにこもってザ・バンドのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布されるうちに、「アイ・シャル・ビー・リリースト ("I Shall Be Released") 」、「ジス・ホイールズ・オン・ファイアー ("This Wheel's on Fire") 」などの楽曲が様々なミュージシャンにカバーされて紹介されたものの、副作用として『グレート・ホワイト・ワンダー ("Great White Wonder") 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なおこのデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス) ("The Basement Tapes") 』の題で公式発表された。

1967年にはベネルックス三国のみで独自にコーラスをオーバーダビングされた「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。

1968年にディランは前作に引き続き、ナッシュヴィル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング ("John Wesley Harding") 』で復帰するが、弾き語り中心で徐々にダウン・トゥ・アースのような傾向が見られ始める。

1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、2009年現在では最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン ("Nashville Skyline") 』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ザ・ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。

1970年代 [編集]

1970年、『セルフ・ポートレイト ("Self Portrait") 』を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあったといわれるがセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュヴィルからニューヨークに戻し、『新しい夜明け ("New Morning") 』を発表する。

その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、レオン・ラッセル、ハッピー・トラウム、アール・スクラッグス、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン、ダグ・サム等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。

1971年発表の『グレイテスト・ヒッツ第2集 ("Bob Dylan's Greatest Hits Vol. II") 』にはディラン自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン ("George Jackson") 」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグバンドバージョン、B面には弾き語りバージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。

1973年に映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉 ("Knockin' on Heaven's Door") 」はディランにとって最も多くカバーされる曲となった[11]。

この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作(Masterpieces)』、『武道館 ("Bob Dylan at Budokan") 』、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』といった企画盤を企画している。なお、『The NeverEnding Tour』『ディランがROCK!』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。

またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロンビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレイト』のアウトテイク集である『ディラン ("Dylan") 』を発売する。ディランはアサイラムで2枚のアルバムを発表した後にコロンビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためとも云われる。『ディラン』は一度CD化されたが、2009年現在廃盤(iTunes Music Store USではダウンロード可能)。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴズ ("Planet Waves") 』『偉大なる復活 ("Before the Flood") 』も1977年にコロンビアから再発売となった。

1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である(最後は1976年の『ラスト・ワルツ ("The Last Waltz") 』だった)。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。

翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロンビア復帰作『血の轍 ("Blood on the Tracks") 』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもNo.1を獲得。ディランは当時、マリー・トラヴァース(ピーター・ポール&マリー)のラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。 この作品は、当初ミネアポリスで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ニューヨークで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。2009年現在、ミネアポリス音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック ("en:Lily, Rosemary and the Jack of Hearts") 」だけが日の目を見ていない。

また1975年10月 - 12月と1976年4月 - 5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー (Rolling Thunder Revue) 」と銘打ったツアーを行なった。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリヴァイヴァルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー ("The Rolling Thunder Revue") 』、『激しい雨 ("Hard Rain") 』、映画『レナルド&クララ』、TV『ハード・レイン』などに収録されている。このツアーメンバーを主として録音された『欲望 ("Desire") 』が1976年初頭に発表され、No.1を獲得するとともに自身最大のセールスを記録した。

1978年には映画『レナルド&クララ ("Renaldo and Clara")』が公開されるが、内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。はじめは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンド・トラック盤からの抜粋であるが、2009年現在オリジナル盤は公式発表されていない。

この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である。ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた。

また日本限定で発売された来日記念盤『傑作 ("Masterpieces")』には、アルバム未収録の「親指トムのブルースのように ("Just Like Tom Thumb's Blues", Live at Liverpool) 」、「 "Spanish Is The Loving Tongue" (Piano Solo Version) 」、「 "George Jackson", (Big Band Version) 」、「リタ・メイ ("Rita Mae") 」などが収録された。後にオーストラリアとニュージーランドでCD化されたが、2009年現在は入手困難。

ツアー中、ツアーメンバーとともに『ストリート・リーガル ("Street Legal") 』を制作。日本滞在時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン ("Is Your Love in Vain?") 」も収録されており、UKなどでマイナー・ヒットとなった。このツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャン (Born again Christianity) の洗礼を受けたことが明らかになった。

1979年発表の『スロー・トレイン・カミング ("Slow Train Coming") 』はディラン流のゴスペルで占められていた。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された、ディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムである。このアルバムは旧来のファン離れを招いた[12]ものの、売れに売れてグラミー賞も獲得した。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サムバディ(Single Edit.) ("Gotta Serve Somebody") 」は2009年現在ディラン最後のトップ40シングルである。シングルB面の "Trouble in Mind" はアルバム未収録。また未発表の "Ain't No Man Righteous, No Not One" もレゲエ・アーティスト、Jah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られている。

1980年代 [編集]

前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩んだ。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せた。ディランはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロンビアに拒絶された。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては "Let It Be Me" 、「デッド・マン、デッド・マン ("Dead Man, Dead Man", Live Version) 」がある。後者は1989年「ポリティカル・ワールド ("Political World") 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。

1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ ("Biograph") 』の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていない。

1983年には『スロー・トレイン・カミング』セッションに参加していたダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル ("Infidels") 』を発表する。この作品は前数作までの福音色が薄れ、従来のファンから大いに歓迎された。しかし、ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい、残されたテープをディラン自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もある。[13]このアルバムからのシングル「スウィートハート ("Sweetheart Like You") 」はBillboard 55位。

この頃から時代は多重録音の手法がメインとなり、即興性を重んじるディランもまた時代性との狭間で試行錯誤を繰り返すことになる。そして、1985年、アーサ・ベイカーの手を借り、R&B、ヒップホップを彼流に取り入れた次作、『エンパイア・バーレスク ("Empire Burlesque") 』は「エモーショナリー・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」といった名曲を含みながらもセールス、評価ともに同年発売のコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の陰に隠れて見過ごされる事態となった。この結果により、ディランはスタジオ・レコーディングに精力を傾けて商業的成功作を作ろうという気持ちを半ば諦めたともいわれる。その後の『ノックト・アウト・ローデッド ("Knocked Out Loaded") 』、『ダウン・イン・ザ・グルーヴ ("Down in the Groove") 』は消極的なアウトテイク集にすぎないとの批判も一部から寄せられた。『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』には南米のいくつかの国で "Important Words" が収録されている。

1985年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。しかしながら「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換せざるをえなくなるアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディションで、キースやロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。

これに危機感を持ったといわれるディランは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにバックを依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年の共演ツアーが実現し、後に大きな話題となる「トラベリング・ウィルベリーズ」結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で "Band Of The Hand" が発表された。助力を仰いだ理由としては、1980年代はセールスも下降気味でディラン独りでは大きなアリーナ、スタジアムでの公演が難しく、サンタナやグレイトフル・デッド等とパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。しかしながら、『リアル・ライヴ ("Real Live") 』、『ディラン&ザ・デッド ("Dylan & The Dead") 』の2枚のライヴアルバムは最低の評価を受けるなど、ディランにとってだけでなく、ディラン流のやり方[14]にそぐわない共演者にとっても、不本意な結果に終わることもまた多かったといわれる[要出典]。この当時、ディラン自身もやや自信喪失気味で、グレイトフル・デッドへの加入を打診したこともあったらしい[要出典]が、メンバーの反対により実現しなかった。

ディランはトム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のPVディレクションを依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像ディレクションを依頼する理由は謎である。

また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期のディランの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはディランの曲が3曲収録されたが、2009年現在廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。

1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー ("The Joshua Tree") 』を発表していたU2のワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワならディランを上手くプロデュースできるのでは?」と発言している。

1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共にインスタント・ユニット、「トラベリング・ウィルベリーズ」を結成し、アルバムも発売した。ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で亡くなったためツアーは幻に終わった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバムを発表し、バンドは自然消滅した。公式発表のアルバムはVol.1とVol.3で、所在不明になったVol.2の発掘が待たれる。

1989年にはボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー ("Oh Mercy") 』を発表。ディラン自身の性来持っている南部志向を存分に引き出し、1980年代の最高傑作と評されるものの、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。 2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のプロモーションビデオには別バージョンが使われた。

1990年代 [編集]

一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日より小さなホールにおいて最小限のメンバーで即興性を全面に押し出したショウをはじめることにした。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年に G・E・スミスのサポートメンバー脱退を持ってひとまず完結となった。これ以降のディランのツアーには、それぞれ別のタイトルがつけられていたのだが、いつしかファンの間ではディランのステージはおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー 」という名称で呼ばれるようになった。

当初はパンキッシュなアプローチも見せたが、次第にアコギとハーモニカという従来のスタイルを捨て、メロディーラインもアンサンブルもかなぐり捨て、ひたすらリードギターを弾きまくるスタイルになり、そのグルーヴ感を全面に押し出すスタイルを一部の評論家(特に小倉エージら旧来のウォッチャー)は「ボディ・ミュージック」とも形容した。ツアーメンバーには、サタデー・ナイト・ライブも手がけたG・E・スミス(後述の30周年コンサートでもハウスバンドのギタリストとして、事実上のコンサートマスターであった)、ウィンストン・ワトソン(ジョン・ボーナムばりのパワフルなドラミングで1990年代半ばのディランサウンドの象徴)、チャーリー・セクストン(元ソロ歌手)などが入れ替わり立ち代わり参加している。

1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ ("Under the Red Sky") 』を発表後、ディランはしばらくオリジナル・アルバムを作らなくなった。そのことに関してインタヴューで「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」と発言している。

その後、1997年までに発表されたものは2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー ("Good as I Been to You") 』と『奇妙な世界に ("World Gone Wrong") 』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブ ("MTV Unplugged") であった。またウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもあった。

1991年にはグラミー賞Lifetime Achievement賞を受賞。授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜いた。

また、この年にはそれまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集 ("The Bootleg Series Volumes 1-3 (Rare & Unreleased) 1961-1991") 』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」、「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの名曲集でディラン再評価の兆しになった。

1992年10月16日にはレコード・デビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念コンサートが開催され、多くのアーティストが一堂に会してディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤング命名)」にはあまり嬉しそうではなく、ステージ上でも時折ナーバスな表情を見せていた。また、出演者が勢ぞろいして歌った「マイ・バック・ページ ("My Back Pages") 」はCDでディランのボーカルが差し替えられていたりと、編集の形跡がみられる。 "Song to Woody" はPAの不備によりアルバム収録はならなかったが、アコギ一本で鬼気迫るリードを弾く「イッツ・オールライト・マ ("It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)") 」は満場の観客を捉えるに充分の一撃であった。

1994年、2月に8年振りに訪日コンサートを行なう。4月には奈良市東大寺境内で行なわれたユネスコ主催の音楽祭「The Great Music Experience〈あおによし〉」のため再訪日。ニュー東京フィルハーモニック・オーケストラをバックに3曲を披露した。そのうちの1曲「はげしい雨が降る」のシンフォニックバージョンがヨーロッパ、オセアニア等でシングルCD「ディグニティ ("Dignity") 」のカップリング曲として収録されている(国によっては「悲しきベイブ(Renaldo & Clara Version)」に差し替えられている)。

夏には「ウッドストック1994 ("Woodstock '94") 」にも出演。公式アルバムには、ディランの曲からは「追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 」だけが収録された。年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド (MTV Unplugged) 』に出演。1960年代の曲を中心とした選曲で、評判となる。翌年CD・ビデオに収録された。同時期、自身が設立したとされるレーベルから、ジミー・ロジャースのトリビュートアルバムを発表。 "My Blue Eyed Jane" はエミルウ・ハリス、ダニエル・ラノワとの久々の仕事であった。

1997年、2月に再び訪日。前回より小さめのホールが主体となったが、今回は迷いのない気迫溢れる演奏で好評を博す[15]。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ディランは「エルヴィスに会えるかと思った」と発言している。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させた。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド ("Time out of Mind") 』は18年振りに全米トップ10に入り、グラミー賞「年間最優秀アルバム賞」を受賞した。このときにはアメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズ (The Wallflowers) のフロントマンである息子のジェイコブ・ディランも同年にグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となった。

2000年代

2000年には、映画「ワンダー・ボーイズ」のための曲「シングズ・ハヴ・チェンジド(Things Have Changed)」でゴールデングローブ賞とアカデミー歌曲賞を受賞した。

2001年2月から3月にかけて、5度目の訪日公演を行う。直後の9月11日には43枚目となるアルバム『ラヴ・アンド・セフト ("Love and Theft") 』を発表。奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日のリリースであった。21年振りのトップ5アルバムである。

2002年ツアーよりディランはほとんどギターを弾かなくなり、もっぱらキーボードに専念するようになった。このことに関してディランは2004年のニューズウィーク誌のインタヴューで、ギターでは彼の望んでいるサウンドを形にしきれないこと、専門のキーボードプレイヤーを頼むことも考えたが、結局自分で弾くことにした、と答えている。

2004年3月17日にデトロイトで行われた公演で、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトと共演し、ストライプスの曲をデュエット。また、この年の「Bonnaroo Festival」に出演。「入り江にそって ("Down Along The Cove") 」がCDに収録されている。

2004年10月には、ディラン自身が筆をとった自伝第1弾『ボブ・ディラン自伝(Chronicles Volume 1)』が発売された[16]。朗読によるCDも発売されている。また、同名の2枚組CDも存在し、「ディグニティ("Diginity")」のデモバージョン等が収録されている。

2005年7月16日に、オンライン書店アマゾン(Amazon.com)の創立10周年を記念したイベントで、ステージを披露。インターネットでストリーミング配信された。ノラ・ジョーンズと「アイ・シャル・ビー・リリースト」をデュエット。また同年9月から10月はじめには、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム(No Direction Home:Bob Dylan)』がテレビで放映され、ディラン本人もインタビューで出演した。その後劇場上映され、翌年DVD化されている[17]。

2006年3月からは、ラジオ番組『Theme Time Radio Hour』で、初めてDJを務めている(アメリカの衛星ラジオ局、MX・サテライト・ラジオの「ディープ・アルバム・ロック・チャンネル」にて放送)。この番組は、インターネットでも配信されているため、日本での聴取も可能である。

同年8月29日には、通算44枚目となる5年ぶりのアルバム『モダン・タイムス ("Modern Times") 』を発表。このアルバムは、9月16日付ビルボードアルバムチャートで30年半ぶりのNo.1を獲得。しかも自身初の初登場No.1を遂げた。また、このアルバムにも収録されている「サムデイ・ベイビー("Someday Baby")」は、ビルボード98位と23年振りのTop100シングル曲となった。

2007年2月のグラミー賞では、『モダン・タイムス』と「サムデイ・ベイビー」で2冠を獲得した。

2008年、過去50年にわたる音楽活動がアメリカ文化に多大な影響を与えたこと、詩の卓越した素晴らしさが評価され、ピュリッツァー賞特別賞が贈られた。

2007年、2008年の二年間をデビュー45周年とし、「DYLAN ICON」キャンペーンを実施全キャリアを総括するベスト盤『DYLAN』発売を皮切りに、「我が道を行く("Most Likely You Go Your Way (And I’ll Go Mine)") 」のリミックスの発表、「ニューポート・フォーク・フェスティバル」完全版DVD化、『オー・マーシー ("Oh Mercy") 』から『モダン・タイムス ("Modern Times")』のアウトテイク、ライブ音源等を収録したブートレグ・シリーズ第8弾『テル・テイル・サインズ ("Tell Tale Signs") 』の発売等ディラン再評価ムーブメントを象徴する動きが見られている。

影響・語録など [編集]

* 「ディランは最高だった」 - ジョン・レノン
* 「僕はジマーマンを信じない」- ジョン・レノンの曲「ゴッド」より
o 「ジマーマン」はディランの本名。この曲はディランの人間性を否定したものではなく、キリスト、プレスリー、ディランなどあらゆる権威やそれまで自分が憧れ、精神的支柱、偶像としてきたものへの依存を止め、独立個人として前向きに生きていこうとする決意表明のもの。
* 「自分達が難解な歌詞を曲にできるようになったのは、ボブ・ディランが売れた前例のおかげ」 - スティーリー・ダン
* 「Weird Guitar Guy」 - ディランが、孫の通うロサンゼルス郊外の幼稚園で演奏したところ、子供たちは家に帰って親に“変なおじさんが来て、ギターで怖い曲を歌った”と報告したそうである。[18]

ディスコグラフィ [編集]

詳細は ボブ・ディランの作品 を参照

日本公演 [編集]
この項目はその主題が日本に置かれた記述になっており、世界的観点からの説明がされていない可能性があります。ノートでの議論と記事の発展への協力をお願いします(Template:国際化)。

* 1978年

2月20日・21日・23日・28・3月1日・2日・3日・4日 日本武道館、24日・25日・26日 大阪松下電器体育館

* 1986年

3月5日・10日 日本武道館、6日 大阪城ホール、8日 愛知県体育館、

* 1994年

2月5日 仙台サンプラザ、7日 横浜文化体育館、8日・9日 日本武道館、11日 名古屋センチュリーホール、12日 大阪城ホール、14日・15日 九州厚生年金会館、16日 広島厚生年金会館、18日 浦和市文化センター、20日 NHKホール

* 1994年

5月20日・21日・22日 奈良・東大寺

* 1997年

2月9日・10日・11日 東京国際フォーラムホールA、13日 倉敷市民会館、14日 福岡サンパレス、16日 名古屋センチュリーホール、17日 大阪フェスティバルホール、18日 大阪厚生年金会館、20日 仙台サンプラザ、22日 秋田県民会館、24日 北海道厚生年金会館

* 2001年

2月25日 大宮ソニックシティ、27日 仙台サンプラザ、28日 秋田県民会館、3月2日 パシフィコ横浜国立大ホール、3日・4日 東京国際フォーラムホールA、6日・7日 大阪厚生年金会館、9日 福岡サンパレス、10日 広島厚生年金会館、12日 名古屋市公会堂、13日 アクトシティ浜松大ホール、14日 日本武道館

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C
%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E
3%83%A9%E3%83%B3



http://www.bobdylan.com/






高音質版
http://www.youtube.com/watch?v=Qnf96_uYALg








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2009年05月03日

忌野清志郎死す 動画あり

<訃報>忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け

 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が大ヒットし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090502-00000100-mai-soci



忌野 清志郎

(いまわの きよしろう、1951年4月2日 - 2009年5月2日)は、日本のロックミュージシャン、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー。自称バンドマン。俳優としての活動歴もあり。

プロフィール [編集]

RCサクセション(THE RC SUCCESSION:以下特段の理由がない限り「RC」と略す。)の中心メンバーとしてデビュー。その後、後述の各種ユニット、ソロ活動等で40年近くに渡り日本のロックシーンに影響を及ぼし続け、「キング・オブ・ロック」の称号で讃えられる。日本語によるロックの確立を果たした先駆者的存在。また、「キング・オブ・ライブ」とも言われるようにそのライブパフォーマンスには定評があり、巧みなシャウトやリズム感あふれるソウルフルなかけ声、オーディエンスを巻き込むセリフじみた呼びかけとボディアクション、奇抜なメイクによる劇場型のステージング、各パートのソロ演奏を取り入れたメンバー紹介の仕方など、日本におけるロックショーの確立において重要な役割を果たした一人である。

1980年前半、RCとしてブレークした際には、「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現、音楽誌のみならず『アサヒグラフ』や『anan』、『宝島』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなった。1980年7月20日付の朝日新聞の社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評された。 忌野から直接的・間接的に影響を受けたと公言するミュージシャン、作家、アーティストも多い。

初期の頃は、肝沢幅一のペンネームで作曲をしていたこともある(本名は栗原清志)。 音楽活動のほか、俳優活動、絵本の執筆など活動は多岐に渡る。 東京都立日野高等学校出身。 メンフィス名誉市民。 1男1女の父親。

2006年7月に咽頭癌と診断され、治療に専念するために活動を休止する。2008年2月には日本武道館で復活コンサートを行った。2009年5月2日、東京都内の病院で癌性リンパ管症のため死去した。享年59(満58歳)。

清志郎自身、特に自慢話を好む性格ではないが、冗談交じりに自慢することがあるとすれば、高校の同級生で後に俳優になった『三浦友和にギターを教えたのは俺だ』というのがある。

遺作はFM802開局20周年のキャンペーンソングであるOH! RADIOをRADIO SOUL 20に作詞作曲で提供。

人物 [編集]

音楽性 [編集]

フォーク、GS全盛の1970年代にあって、バンド形態こそアコースティックながらデビュー時よりロック、R&Bを基調としたオリジナル曲を作り、歌い続ける。特に影響を受けたと自身が語るのは、黒人音楽とビートルズである。

黒人音楽であるソウル・ミュージック、R&Bへの造詣はことのほか深く、往年の名ソウルシンガー、オーティス・レディングを最も影響を受けたアーティストの一人であると公言している。その影響は、メロディーやリズムの取り方はもちろん、ステージ上でオーディエンスに問いかける「愛しあってるかい?」というMCや、曲中での「ガッタ、ガッタ」という独特の発声・シャウトなどからも伺うことができる。ソウル、R&Bへの憧憬から、自身のライブにおいてジェイムス・ブラウンのガウンショーを再現、ブッカーT & The MG'sとのレコーディングやツアーの実施(1992年)、ブルース・ブラザーズ・バンド来日公演時のサプライズゲストとしての参加(2007年4月)、サム・ムーア(ex. サム&デイヴ)のステージへの飛び入り出演(2007年10月)なども実現させている。自身の曲中においてもオーティス・レディングの曲をカバーしたり部分的に使用したりしている。(例:「Sweet Soul Music」の曲中で「(Sittin' on)the Dock of the bay」、ライブアルバム『The KING OF LIVE』中の同曲では「I've been loving you too long」を歌っており、「よぉーこそ」の曲中では「I can't turn you loose」の有名なホーンセクションのフレーズを使用している。)

また、ビートルズに関しては多くの曲にビートルズへのオマージュと見られるアレンジやコード進行、ファルセット、歌詞などが散りばめられている。

歌詞 [編集]

ロック=英語が常識と考えられていたかつての日本の音楽シーンにあって、日本語でもロックのリズムに乗せることができることを証明し、多くのミュージシャンに影響を与えた。

その特徴は、歌詞がはっきりと聴き取れる歌い方ながら、アクセントや母音・子音の使い分け、韻の踏み方、3連譜的な単語の使用などにより日本語特有の間延びを感じさせないような作詞法にある(対極的な作詞法・歌い方としては、日本語を英語のように聴かせる桑田佳祐の例がある)。これらにより、前記の海外のミュージシャンや外国人プロデューサーなどからも高い評価を得ており、また、人間の内面をストレートに表現する叙情性や言葉の選び方などに対して、糸井重里、筑紫哲也、川崎徹、吉本隆明、湯川れい子、坂本龍一、秋元康、町田康、枡野浩一ら各界の文化人からも賛辞が贈られている。 小説家の角田光代は、忌野の歌詞を「彼の書く歌の詩は、私には小説だった。ひとつの言葉が幾多もの意味に広がる。個人的な言葉のつながりが、普遍的な意味を持つ」と評している。

歌詞の内容は、基本的には黒人音楽の影響から恋人や家族への愛を歌ったものが多いが、一方で大きな特徴として下記の3点が挙げられる。

1. 社会的問題のテーマ化 日本の音楽シーンにあって社会的メッセージを直接的に歌い続ける数少ないミュージシャンの一人である。内容は、マスコミ批判から世界平和、反核、政治、ネグレクト、差別、国家権力まで幅広く、その問題意識の高さは度々メディアに取り上げられることがある。それらにあてはまる主な作品(カバーを含む)に、「言論の自由」「ラブ・ミー・テンダー」「サマータイム・ブルース」「軽薄なジャーナリスト」「LONG TIME AGO」「障害者と健常者」「トカレフ(精神異常者)」「目覚まし時計は歌う(選挙ソング)」「警察に行ったのに」「ママもうやめて」などがある。
2. ダブルミーニングの多用 恋人(女性)や車のことを歌いながら、ドラッグやセックス、政治的なメッセージを連想させるダブルミーニングの意味深な歌詞を初期の頃より多く発表している。主な作品に「雨あがりの夜空に」「SKY PILOT」「SHELTER OF LOVE(ツル・ツル)」「I LIKE YOU」「TIMERSのテーマ」などがある。
3. タブーを破る過激性 マスコミ的にタブー視されるような問題を正面から見据えてアンチテーゼとして問題提起する作品も多い。主な作品に「カプリオーレ」「FM東京」「覚醒剤音頭」「宗教ロック」「あこがれの北朝鮮」などがある。

パフォーマンス [編集]

「オー、イェ〜イ」「ベイベ〜」「愛しあってるかい?」「愛してま〜す」「イェ〜って言え〜」などのMC、一度聴いたら忘れられない独特な歌声、ど派手な衣装とどぎついメイク、卑猥な行為を連想させるステージアクションなど、常にエキセントリックな手法を用いオーディエンスを独特の世界観へと導くパフォーマンスを行う。また、ギターだけでなく、ブルースハープ、カズー、ピアノ、フルート、サックス、ドラム、ほら貝など様々な楽器の演奏を披露することも多い。

代表曲 [編集]

「僕の好きな先生」「雨あがりの夜空に」「トランジスタラジオ」「スローバラード」「い・け・な・いルージュマジック(坂本龍一との共作)」「ベイビー!逃げるんだ。」「パパの歌」「デイドリーム・ビリーバー(モンキーズのカバー)」など。あるテレビ番組で本人が語った所によると、レパートリーは他人に提供したものも含めると400〜500曲はある。

その他 [編集]

* 自転車愛好家。東京都内の仕事先には自転車で通うほどで、「2005自転車名人」にも選ばれた。チームLSD(Long Slow Distance)を結成し、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど長距離サイクリングに挑戦している。愛車は総制作費160万円のロードレーサー「オレンジ号」。2005年、オレンジ号が盗難に遭い後日発見されたことが報道され話題になった。自転車旅行の記録などからなる著書『サイクリング・ブルース』もある。
* 「音楽で生計を立てられなければ絵描きになるしかなかった」と本人が言うほど画才があり、自身のアルバムジャケットや書籍の表紙などを描いている。毎年恒例の日野高校OB展にも作品を出品している。なお、初期のRCサクセションのヒット曲「僕の好きな先生」は、忌野が日野高校に在学していた頃の美術教師がモデル。

略歴 [編集]

1951年、誕生

1966年、中学の同級生、小林和生、破廉ケンチと「ザ・クローバー」を結成。

1967年、高校進学によりザ・クローバーを解散。小林和生と武田清一(後に 日暮しでデビュー)とで「ザ・リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」(バンドの名前は「クローバーの残党」を英語名)を結成し、初めてギャラを得る仕事をするも、数か月と短い活動期間で解散状態に。

1968年、破廉ケンチがバンドに戻り「RCサクセション」(バンド名前は「クローバーの残党の続き」を英語名)として再スタート。

1969年、RCとしてテレビ番組「ヤング720」のオーディションに合格。続いて東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで3位に。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。

1970年、RCとして「宝くじは買わない」で東芝音工(現東芝EMI)よりシングルデビュー。

1971年、渋谷のライブハウス・青い森で当時フォークデュオ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。

1972年、共作した「帰れない二人」「待ちぼうけ」の2曲が収録された井上陽水のアルバム『氷の世界』がミリオンセラーとなる。

1978年、RCに仲井戸麗市らがサポートメンバーとして参加し、フォーク形態からロック/R&B形態へとバージョンアップされる(当時は、その衝撃の大きさから「パンク・ロック」と評された)。

1979年、ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。

1981年、RCとして初の日本武道館単独公演。

1982年、坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒット。PVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 同年、サム・ムーア、チャック・ベリーらとのジョイントライブを開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。

1982年、肝臓を壊し、医者から「一生治らない」と宣告される。

1983年、藁にもすがる思いで頼った東洋医学による治療を1年間続けた結果、肝臓が完治。「一生治らない」と告げた医者からも「奇跡だ」と驚かれる。

1985年、RCとして独立事務所「うむ」を設立。

1987年、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』をリリース。

1988年、東芝EMIより発売予定だったRCのアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。

1989年、ザ・タイマーズの1stアルバム『THE TIMERS』をリリース。カップラーメンのCMに使われたシングル「デイ・ドリーム・ビリーバー」がヒット。

1991年、RC無期限活動休止。個人事務所「ベイビィズ」設立。

1993年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」設立。

1995年、映画『119』の音楽担当として日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。インディーズレーベルSWIM RECORDS設立。

1998年、フジロックフェスティバル初出演。初のフジロックの成功とともに、忌野はフジロックの顔となる。

2000年、30周年記念イベント「RESPECT!」を日本武道館にて開催。

2002年、せがわきりとの共著で絵本『ブーアの森』(TOKYO FM出版)発表。忌野の名義で同名のマキシ・シングルがavex ioからリリース。

2006年7月、公式ウェブサイトにて喉頭癌であることを発表。治療のため入院生活に入る。

2007年12月8日、日本武道館での『Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ』に出演。ファンに完全復活を印象づける。

2008年2月10日、日本武道館にて『忌野清志郎 完全復活祭』を開催。全24曲を歌いきり、武道館を埋め尽くした13,000人のファンを心酔させる。後日、大阪フェスティバルホール、京都会館第一ホールにおいてそれぞれ追加公演を行う。

2008年7月14日、癌の左腸骨への転移が判明したことを公式ウェブサイトで発表。夏の野外フェスティバル、ライブはすべてキャンセル、再び治療に専念する。

2009年5月2日、癌性リンパ管症(癌細胞がリンパ管を塞栓したことによる肺の湿潤化)のため死去。満58歳没。

参加バンド・ユニット等 [編集]

* RCサクセション - (1968年 - ) 忌野清志郎・破廉ケンチ・小林和生の3人から始まった忌野の代名詞的グループ。当初はアコースティック主体、実験的、独創的な作風と辛らつなMCなどで活動。1970年代終わり仲井戸麗市が加入する前後から、エレキギターをフィーチャーし、忌野、仲井戸のコンビネーションなどで、一躍時代を代表するロックバンドとなる。新井田耕造、Gee2wo、小川銀次、春日博文、厚見玲衣らが在籍。1991年より無期限活動休止。
* DANGER - (1982年 - ) 梅津和時率いるドクトル梅津バンドに忌野が加わったバンド。アルバムも発表。
* RAZOR SHARPS - (1987年) イアン・デューリーのバックバンドであるブロックへッズが忌野のバックを担当し、アルバムを共に制作した際のバンド。ツアーも行った。スタジオ録音では、元ザ・クラッシュのトッパー・ヒードンも参加。
* ザ・タイマーズ - (1989年-1995年) 忌野、三宅伸治、川上剛、杉山章二丸らが、それぞれゼリー、トッピ、ボビー、パーを名乗って演奏したといわれている。ゲリラ的な活動を展開した覆面バンド。あまりにも過激な歌詞やMC、予測がつかないスリリングなステージパフォーマンスなどで知られる。
* HIS - (1990年 - 1991年) 細野晴臣、忌野、坂本冬美の 3人によるユニット。名前は3人の苗字のイニシャルから。HISを作った理由は、「ぼくが冬美ちゃんを好きで冬美ちゃんがぼくを好きで、細野さんが冬美ちゃんを好きで冬美ちゃんが細野さんを好きで、ぼくが細野さんを好きで細野さんがぼくを好きだからだったんだ」。なお、坂本冬美はRCのアルバム『COVERS』にも参加している。
* トーサンズ - (1991年) 浜口茂外也と組んだ2人組ユニット。糸井重里作詞の「パパの歌」をシングル発売。
* 23s - (1991年 - 1993年) 山川のりを、大島賢治、中曽根章友など若手と組んだRC後初の恒常的バンド。
* スクリーミング・レビュー - (1994年 - 1995年) ストリングスを加えた大所帯のグループ。DVDを一枚発表。基本的にはザ・タイマーズのメンバーが本名でバックを担当している。
* リトル・スクリーミング・レビュー - (1996年 - 1999年) 三宅伸治、藤井裕、富岡義広(元TENSAW)と結成されたバンド。2枚のアルバムと1枚のミニアルバムをリリース。
* ラフィータフィー - (2000年 - 2001年) 藤井裕、上原"ユカリ"裕、ジョニー・フィンガーズ、武田真治というメンバーで結成されたバンド。
* LOVE JETS - (2002年 - ) プラハ、パイロン、プリンシプルを名乗った覆面バンド。宇宙からやってきたというコンセプトのもとに結成されたグループ。忌野のほかのメンバーは、KANAME(COSA NOSTRA)と阿部耕作(THE COLLECTORS)。
* ミツキヨ - (2002年) 及川光博との企画ユニット。シングルを発表。
* 忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS -(2003年 - )メンバーは、三宅伸治、中村きたろう、厚見玲衣、宮川剛、梅津和時、片山広明、渡辺隆雄。

その他イベント用の単発的なユニットも数えると40以上のバンド、ユニットでステージをこなしている。

エピソード [編集]

放送禁止・発売中止事件 [編集]

* 1980年、RCでリリースしたシングル「ボスしけてるぜ」が中小企業経営者たちからの苦情により有線放送で放送禁止となる。
* 1988年、東芝EMI から発売予定だったRCのアルバム『COVERS』が、原発問題を取り扱った歌詞などがネックとなり、急遽発売中止に。後にレコード会社を変えて、ようやく発売される(詳細は『COVERS』の頁を参照のこと)。
* 1989年、RCおよびザ・タイマーズの曲をFM東京が放送自粛。
* 1999年、パンク・ロック風にアレンジした「君が代」を収録したアルバム『冬の十字架』がポリドールから発売される予定だったが、同年8月に国会で成立した国旗・国歌法を巡る議論に巻き込まれることを危惧した同社が発売を拒否。結局、販売をUKプロジェクトにしインディーズのSWIM RECORDSレーベルから発売される。
* 2000年、SWIM RECORDSレーベルから発売予定だったラフィータフィー名義の『夏の十字架』は、インディーズ商人の実態を揶揄した「ライブ・ハウス」という曲中で暗に批判されたライブハウス・下北沢QUEのオーナーが激怒、同店と系列関係にあるUKプロジェクトの逆鱗に触れインディーズからも販売中止という前代未聞の事態となる。奇しくも、同曲が批判するインディーズ業界の問題点が実証された形となる。同アルバムは、最終的にSWIM RECORDSから発売・販売される。

テレビ番組・ラジオ番組事件 [編集]

* 1973年、深夜放送「バイタリス・フォーク・ビレッジ(後に「ライオン・フォーク・ビレッジ」に改題)にて、スポンサーであるライオンの製品「バイタリスを使ってます」とお約束で言わなければならないところを、ジョークで「(ライバル会社資生堂の整髪料である)MG5を使ってます」と言ってしまい大問題となる。放送自体は録音によるものだったためオンエア時には問題の発言はカットされたが、最終的に番組を締め出される。
* 1982年、生放送番組「夜のヒットスタジオ」にRCとして出演した際、曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。その数は500本近くに上ると言われている。
* 1989年、生放送番組「ヒットスタジオR&N」にザ・タイマーズで出演した際、FM東京によるRCの「ラブ・ミー・テンダー」やTEARDROPS(元村八分の山口冨士夫が作ったバンド)の「谷間のうた」放送禁止措置に抗議するため、5曲連続の演奏のうち、2曲目の予定曲(テロップでは「偽善者」と表示)を突如変更して、「FM東京のうた」をゲリラ的に演奏。「政治家の手先」など同局を罵倒する内容や、女性器の俗称などの放送禁止用語を連発したが生放送ゆえに音声に修正を加えることもできず、そのまま放映される。巧みにメドレー構成された5曲であったため中断されることなく最後まで歌いきる。演奏の後、司会者の古舘伊知郎が真っ先に謝罪のコメントを入れた。なお、この番組は録画による遅れ放送地域も存在したが、番組の性質上問題場面もカットされずに放送された。
* 2002年6月1日、FM802開局13年記念イベント「JAPANESOUL」に三宅伸治と共に、それぞれ長間敏(おさまびん)、神田春(かんだはる)と名乗ったデュオ「アルカイダーズ」として出演。米国9.11テロに関連した曲を演奏したが、放送ではカットされた。
* 2003年4月22日、日本武道館で開催された「アースデイ・コンサート」(TOKYO FMなどJFN加盟する全国のFM各局に生放送)に出演した際、当初予定になかった「君が代」や「あこがれの北朝鮮」の替え歌(発売当時の金賢姫をキム・ヘギョンに変更するなどした)などを歌い、一時その部分が放送されなかった。

癌告白と闘病生活 [編集]

* 2006年7月、喉の不調を訴え病院で検査した結果、喉頭癌であると診断される[1]。
* 2006年7月13日、公式ウェブサイトにて喉頭癌であることを発表。すべての活動を休止して治療のため入院生活に入る。2週間後に出演する予定だったフジロックフェスティバルを含め、以降の公演はすべてキャンセルとなる。声が出なくなると宣告されたことから手術による癌の摘出は回避。放射線や抗癌剤での完治を図る。
* 入院後2週間で代替医療へと治療法を変更。これは、がんセンターでの現代医学的な治療計画では胃に穴を開けての流動食生活となることが余儀なくされ、これに伴い唾液腺が消滅。唾液が出ないためステージで歌うのは困難になると言われたことから。なお、この計画どおりに治療しないと年明け(2007年)には手の施しようがなくなり死に至ると宣告されたという[1]。
* 2007年1月、石田長生のライブにシークレットゲストとして出演。これを端として、札幌市民会館閉館記念イベント、梅津和時、ブルース・ブラザーズ・バンド、藤井裕、三宅伸治、ゆず、サム・ムーア、及川光博らの各ライブにゲスト出演(シークレットゲスト、飛び入り出演を含む)し徐々に活動を再開。
* 2007年2月21日、TBSラジオ「竹中直人ハードボイルド・ソーセージ」に出演し、告知を受けたときの心境や闘病生活について初めて電波媒体の番組で語る。友人である竹中のこの番組には同年12月13日と26日にも出演。「大病を経験すると音楽性とか性格とか、やはり変わるもんですか?」の質問に、「金輪際変わっちゃいない!」と斬り捨てつつも、番組内で高見山や内田裕也のモノマネを披露し竹中を驚かせた。
* 2007年12月、日本武道館でのDream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴに出演。ファンに完全復活を印象づける。さらに翌2008年2月には同じ日本武道館で『完全復活祭』を開催。喉頭癌を克服し本格的に活動を再開する。
* 2008年7月14日、新たに左腸骨への癌の転移が認められたことを公式ウェブサイトで発表。フジロックをはじめ予定されていた以降の予定をすべてキャンセルし、通院による放射線治療を開始。なお、足の痛みを訴え病院で検査を受けたことで癌の転移が発見されたが、この検査結果が判明した7月8日は、奇しくも忌野がゲスト出演し喉頭癌克服による完全復活を報告した『徹子の部屋』(テレビ朝日系)が放送された日であった。
* 2008年9月、原田郁子のアルバム『銀河』に参加。コーラス、アコースティックギター、ブルースハープで参加。タイトルトラック「銀河」を作曲。
* 2008年11月20日、ブルーノート東京でのBooker T & The MG'sのライブに飛び入り。「ソウルマン」と「ミッドナイトアワー」を熱唱。
* 2008年12月17日、間寛平『アースマラソン』の応援歌を作詞・作曲しビデオで披露。
* 2009年5月2日、癌性リンパ管症により東京都内の病院で死去。享年59(満58歳)。

語録 [編集]

* 「ビートルズがこういう頭してんだよ。学校の先生よりジョン・レノンの方が好きだもん」(高校時代、風紀の先生に長髪を注意されて)
* 「こんなせまいライブハウスは初めてだぜ!」(1980年、シーナ&ロケッツらと出演した武道館のステージで。ただし文献によっては、前年ジョニー・ルイス&チャーの前座として初めて立った武道館のステージで、「こんな広いライブハウスは初めてだぜ!」と言ったとするものもある。)
* 「(みんなが)最近、ローリング・ストーンズを知ったんじゃない?」(RCはストーンズの物真似だという批判に対して)
* 「あるよ。ある予定なんだけど、残念ながら社会の方にないみたいね(笑)、こっちに対しては」(「夜のヒットスタジオ」に出演時、テレビカメラに向かってガムを吐きかけるなどの悪ふざけをしたことに関し、「自分に社会性はあると思うか?」という雑誌のインタビューに答えて)
* 「ストーンズだけどさ、あのステージを観たら、なんて言うか、…孤独感が消えたんだよね。ほら、…僕は孤独でしょ(笑)。でも、もう孤独感は消えた。…うまく言えないけど」(1982年のローリング・ストーンズ、ロス公演を観て)
* 「本当にいいものは生きているうちは認められないんだと思ってたもん。当時は」
* 「(日本語で歌を唄うのは)ただ単に英語ができないから日本語で唄ってるだけ。いつも日本語で喋っているし日本語しか喋れないから、日本語で歌を唄う以外ないという感じなのね。やっぱ、意味が分かってないと唄えないでしょ」
* 「ビートルズなんて、大した才能じゃない。彼らが日本人だったら、あんなになりゃしなかった」
* 「ロックでメッセージを伝えるのはダサいなんて言ってる奴は、ロックをわかってないと思うな」
* 「周囲より僕は歌の力ってのを信じてます」
* 「槇原のを回収しているのなら、ビートルズやジミヘンも回収しろって(笑)」(薬物所持で逮捕された槇原敬之の作品が回収されたことに対して)
* 「民主主義国家だとか言論の自由だとか小さい頃から教わってきたわけじゃない?日本はいい国だって。結局は自分のやりたいことをやろうとすると、こんなことになっちゃって…」(RCのアルバム『COVERS』の発売中止が決定したことを受けて。)

その他 [編集]

* 初めて自分のお金で買ったレコードは、シルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」。
* 高校三年生のときの担任の先生(「僕の好きな先生」のモデルとなった教師)から、卒業式の後「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」と真剣な顔で言われたことが頭から離れず、30代後半まで独身だった。その先生が初めてライブに来てくれたときにそのことを伝えると、「君はもういいんだよ」と言ってくれたため、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」と結婚した[2]。
* 長男、竜平くんが生まれたことが大変嬉しかったらしく、当時のライブではMCの中で突然「♪oh- タツ、魔法のタツが生まれたぞ お父さん子だよ」とPP&Mの「Puff,the magic dragon」の替え歌を歌う親バカぶりを披露していた。ただし、聴いている観客はなんのことかわからずきょとんとしていたため、「なんでもありません」とつぶやいて次の曲へ移るというパターンであった。後に「竜平くん」という曲を発表している。
* アルバム『Memphis』に収録されている「石井さん」は、忌野の奥さんのことを歌った曲。なお、この曲がフェードアウトする中で聞こえる「おーい、ハイタワーさぁん」という声は、ギターのスティーヴ・クロッパーが自分の奥さんの名前を呼んでいる声を録音している。
* 「ぼくの目は猫の目」は、NHKの「みんなのうた」でかかっていたことがある。
* 実母の遺品の中に、レイテ島で戦死した夫への思いや軍部への不満を綴った戦中戦後の日記を見つけたことが、反戦・社会批判のメッセージソングを歌い始めるきっかけになったと語っている[3]。
* 『夏の十字架』収録曲「プリプリ・ベイビー」には、長女の百代ちゃんの肉声が収録されている(アルバムのクレジットでは「バッキング・ボーカル」)。なお、百代ちゃんはDVD『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』の中でGO GO GIRLSの一員としてステージに登場している。
* ドラマ「マンハッタンラブストーリー」にちょい役で出演したことがある。これは、忌野自身から同ドラマに出演していた松尾スズキに「僕は、あの番組に出るべきだと思うんだ」と電話があったことがきっかけ。脚本の宮藤官九郎も忌野のファンだったため無理矢理出演シーンを脚本に突っ込んだ。
* プロ野球中日ドラゴンズのファンを公言。ユニフォーム姿でメディアに登場することもある。名古屋でのライブの際は、同チームOBの川又米利がゲスト出演することも度々。
* 2008年、東京、大阪、京都で行われた「忌野清志郎 完全復活祭」では、「快気祝い」として入場者に対し各会場名ごとに異なる手ぬぐいが渡された。
* 2008年7月21日、静岡県掛川市のつま恋で行われた野外ライブ『ap bank fes '08』において、がん転移が発覚し欠場した忌野のために櫻井和寿(Mr.Children)が「みんなで(忌野の曲を)歌いましょう!」と提案。2万7,000人で「雨あがりの夜空に」を大合唱した。
* その他、RCサクセションの頁を参照。

ディスコグラフィー [編集]

CD [編集]

RCサクセションの作品はRCサクセション#ディスコグラフィーの頁を参照。

ソロ、およびソロユニット名義

アルバム

* RAZOR SHARP (1987年2月)
* HAPPY HEADS (1987年6月)(ライヴ・アルバム)
* Memphis (1992年3月)
* Have Mercy! (1992年3月)(ライヴ・アルバム)
* GO GO 2-3's(1992年11月)(忌野清志郎 & The 2-3's名義)
* abcd(1993年5月)(編集盤)
* Music From Power House(1993年9月)(忌野清志郎 & The 2-3's名義)
* MAGIC (1994年9月)(編集盤)
* GLAD ALL OVER (1994年12月)(ライヴ・アルバム、仲井戸麗市との共同名義)
* 119 オリジナルサウンドトラック(1995年1月)
* Groovin' Time(1997年7月)(忌野清志郎 Little Screaming Revue名義)
* GOODBYE EMI(1998年3月)(編集盤)
* Rainbow Cafe(1998年10月)(忌野清志郎 Little Screaming Revue名義)
* RUFFY TUFFY(1999年7月)
* 冬の十字架(1999年9月)(忌野清志郎 Little Screaming Revue名義)
* 夏の十字架(1998年10月)(ラフィータフィー名義)
* 秋の十字架(2000年11月)(ラフィータフィー名義)
* KING(2003年11月)
* GOD(2005年3月)
* 夢助(2006年10月)
* 入門編(2008年5月)(編集盤)
* 忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館2枚組ライブアルバム(2008年6月)(ライヴ・アルバム)

シングル

* AROUND THE CORNER 曲がり角のところで / ちょっと待ってくれ(CHOPPED TOMATO PUREE)(1987年2月)
* E-JAN / STAND BY ME(1987年9月)
* パパの歌 / 犬の子(1991年5月)
* 世間知らず / BOYS(1992年2月)
* パパの手の歌 / カラスカラス(1992年6月)(忌野清志郎 & The 2-3's名義)
* いつか観た映画みたいに / ニュースを知りたい(1992年6月)(忌野清志郎 & The 2-3's名義) 「いつか観た〜」は映画『プロゴルファー織部金次郎』主題歌。「ニュースを〜」は報道番組『筑紫哲也 NEWS23』エンディングテーマ。
* お兄さんの歌 / あの娘の神様(1993年1月) 「お兄さんの歌」は、テレビ番組『巨泉の使えない英語』主題歌。
* プライベート / 恩赦(1993年10月) 「プライベート」は、テレビドラマ『デザートはあなた』主題歌。
* サラリーマン / 競馬場で会いましょう(1994年5月) 「競馬場で〜」はJRA CM曲。
* 君にだけわかる言葉 / ダーリン(1995年11月)
* GOOD LOVIN' / マイティー・マイ・ラブ(1996年1月)
* 世界中の人に自慢したいよ / マーマレード・ソング(1996年4月)
* メロメロ / 風(1997年6月)(忌野清志郎 Little Screaming Revue名義)
* サンシャイン・ラブ(1998年9月))(忌野清志郎 Little Screaming Revue名義) その他の収録曲は、「ギビツミ」(トヨタ・ノア CM曲)、「ひどい雨」。
* QTU(1999年7月) その他の収録曲は、「出発の時間」「夜空の星」。
* JUMP(2004年11月) マキシシングル。エースコック・スーパーカップ CM曲。その他の収録曲は、「イヤシノウタ」(ダイドードリンコ・デミタスコーヒー CM曲)、「赤いくちびるに」(高橋酒造純米焼酎白岳しろCM曲)、「ラクにいこうぜ」(グロンサン CM曲)。
* 仕草(2005年12月) ジャケットは書道家・森大衛の手によるもの。他の収録曲は、「雑踏」「旅行」。

特別ユニット他 主要参加作品

* い・け・な・いルージュマジック(1982年2月)(忌野清志郎+坂本龍一名義シングル)
* DANGER(1982年11月)(どくとる梅津バンド+清志郎名義アルバム)
* DANGER II(1985年7月)(DANGER名義ミニアルバム)
* 県立地球防衛軍(1986年3月)(Johnny,Louis&Char+Kiyoshiro参加サウンドトラックアルバム)
* ぞうのババール(1989年12月)(語り・忌野清志郎 ピアノ・高橋アキによる読み聞かせCD)
* ロックの生まれた日(1990年5月)(坂本冬美、三宅伸治とのユニットSMI名義で参加のオムニバスライヴアルバム)
* HIS(1991年7月)(細野晴臣、坂本冬美とのユニットHIS名義アルバム)
* ババールのしんこんりょこう(1994年9月)(語り・忌野清志郎 ピアノ・高橋アキによる読み聞かせCD)
* パーティーをぬけだそう!(1996年11月)(忌野清志郎と篠原涼子名義シングル)
* Hospital(1997年3月)(Kiyosiro meets De-ga-show名義アルバム)
* 何度も夢の中で繰り返すラブソング(1999年)(ぴんく名義によるインディーズ盤。「ぴんく」は、TOKIOの松岡、長瀬らと組んだ覆面バンド)
* RESPECT!(2000年5月)(デビュー30周年記念オムニバスライヴアルバム)
* 強烈ロマンス (2002年10月)(ミツキヨ名義)
* ちんぐろ(2003年7月)(LOVE JETS名義アルバム)
* 宇宙大シャッフル(2003年7月)(LOVE JETS名義シングル TVアニメ『ちびまる子ちゃん』エンディングテーマ)
* 雨あがりの夜空に 35(2005年5月)(忌野清志郎 featuring ライムスター名義シングル)
* 愛を謳おう (2005年7月)(忌野清志郎 with 井上陽水名義シングル)

THE TIMERS

* デイドリーム・ビリーバー/3部作(1989年10月)シングル
* THE TIMERS(1989年10月)アルバム
* ロックン仁義 /企業で作業/ダイナ(嫌煙のダンナ)(1989年12月)シングル
* サヨナラはしない/スィート・ヒッチ・ハイカー/ヘリコプター(1994年3月)シングル
* 復活!!The Timers(1994年4月)アルバム
* 不死身のタイマーズ(1994年4月)アルバム

ビデオ・DVD [編集]

RC名義

RCサクセションの頁を参照。

ソロ、およびソロユニット名義

* HAPPY HEADS LIVE IN JAPAN / 忌野清志郎 & RAZOR SHARPS(1987年6月)
* ロックの生まれた日 / various artists(1990年7月) - ユニットSMI名義で4曲収録
* HAVE MERCY! / 忌野清志郎 with Booker T & THE MG'S(1992年7月)
* Screaming Revue (1994年9月)
* GLAD ALL OVER / 忌野清志郎 & 仲井戸麗市(1994年12月)
* RESPECT! / various artists (2000年6月)- デビュー30周年記念イベントの模様を収録
* WANTED (2004年5月)
* ONE MAN SHOW (2007年7月)
* 2005★GOD Presents ROMANCE GRAY35 (2005年7月)
* 忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館 (2008年5月)
* ブルーノートブルース 忌野清志郎 LIVE at Blue Note TOKYO (2008年8月)

THE TIMERS

* 不死身のタイマーズ(1994年4月)

その他

* 不確かなメロディー (2001年8月)

著書 [編集]

* エリーゼのために 忌野清志郎詩集(詩集、彌生書房 1983年)
* 忌野旅日記(エッセイ、音楽之友社 1986年・新潮文庫 1993年)
* 十年ゴム消し(私小説風エッセイ、六興出版 1987年・河出文庫 2000年)
* 瀕死の双六問屋(エッセイ集、光進社 2000年[4]・小学館文庫 2007年)
* ブーアの森(せがわきり作の絵本。忌野は絵を担当。TOKYO FM 出版 2002年)
* 君が僕を知ってる(新美敬子の写真とのコラボ詩集、洋泉社 2003年)
* おとうさんの絵(相馬公平作の絵本。忌野は絵を担当。マガジンハウス 2003年)
* Bad Cat バッドキャット(トレーシー・リー、マクギナス・ケリー作の絵本。忌野は翻訳を担当。ブロンズ新社 2003年)
* サイクリング・ブルース(自転車指南書、小学館 2006年)

出演 [編集]

テレビ・ラジオ番組 [編集]

* ライオン・フォーク・ビレッジ - 辛らつでブラックなMCをたびたび披露していた初期RC時代にレギュラーとして出演。
* ヤングインパルス - 1972年、テレビ神奈川の番組。レギュラー出演。
* 夜をぶっとばせ - 1988年、FM大阪の番組。後にFM東京系にもネットした。MCを担当。弾き語りなども披露。
* ボクの就職 - 1994年、TBS東芝日曜劇場。緒形直人、渡瀬恒彦主演。堀川とんこうプロデュース。大岡進監督、戸正啓監督。主題歌をお願いに来た戸正啓の熱望に応えて、主人公の義兄であり売れないミュージシャンという役でシブシブ出演した。が、結果出演を楽しむこととなり、その後の俳優活動へも影響したと思われる。劇中で弾き語り「And I Love Her」「エンジェル」「パパの歌」などを何度も披露。#10ではコンビニ前でエレキライブを決行、「雨上がりの夜空に」(おかゆのレトルトパックの替え歌の特別バージョン)、「よぉこそ」、「い・け・な・いルージュマジック」等を熱唱。最終回ではバンド仲間と主題歌「サラリーマン」を演奏した。打ち上げでは、ライブ演奏。斉藤洋介のリクエストに応えて「僕の好きな先生」を歌う(因みに竹野内豊のデビュー作でもある)。
* 忌野清志郎アワー - 1992年、秋元康企画の特別番組。糸井重里や泉谷しげる、井上陽水、奥田民生などもゲスト出演した。
* デザートはあなた - 1993年、岩城滉一主演。森瑤子原作。主人公の友人役で出演。劇中で弾き語りなどを何度も披露。主題歌は忌野清志郎&23sの「プライベート」
* 23sのオールナイトニッポン - 基本的には23sメンバーが毎回担当。忌野も時々出演した。
* ギフト - 1997年、木村拓哉主演。主人公の情報屋的役割を持つ引きこもりの犯罪オタク役として出演。
* 筑紫哲也NEWS23 - 2004年7月9日の第二部『金曜深夜便』 「目覚まし時計は歌う(選挙ソング)」を披露。「投票に行こうぜ〜〜〜!!」と訴えた。ほか「忌野清志郎という生きかた」(1999年11月25日)、「30周年だぜベイベー!忌野清志郎 撮って出し」(2000年3月3日)などたびたび特集が組まれている。1992年には、番組エンディングテーマ曲「ニュースを知りたい」(忌野清志郎 & The 2-3's名義)も提供。筑紫がメインキャスターを降板した2008年3月28日にも筑紫との温泉旅行先での対談で出演した。なお、筑紫は、忌野のライブで前説をやったこともある。
* 野ブタ。をプロデュース - 2005年、主人公たちが通う高校の近くの本屋店主役で出演。
* ドラマコンプレックス 雨宿りの恋〜うさぎと亀より〜 - 2006年、市原悦子主演。主人公が恋心を抱くダメ男役。
* 探偵!ナイトスクープ - 顧問として何度か出演。探偵の依頼にも協力した。
* スポンジ・ボブ - 2008年、最強キッズTV!ニコロデオンのアニメ番組。吹替え、王様役(米版ではデヴィッド・ボウイが声優を担当している)。

映画 [編集]

* お墓と離婚 - 1993年、岩松了監督。小林薫主演。墓を買いに来る客の役で出演。
* 119 - 1995年、竹中直人監督。忌野は音楽監督として参加。
* 不確かなメロディー - 2000年、杉山太郎監督。忌野の全国ツアーを追ったドキュメンタリー映画。
* カタクリ家の幸福 - 2001年、三池崇史監督。沢田研二主演。詐欺師役で出演。
* チキン・ハート - 2002年、清水浩監督。池内博之主演。主人公のよき理解者、サダ役で助演。
* 1980年 - 2003年、ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督。ともさかりえ主演。忌野は、カメオ出演。
* 恋の門 - 2004年、松尾スズキ監督。松田龍平主演。アパートの謎の住人の役で出演。
* ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム - 2004年、サン・マー・メン監督。インタビューイとして出演。
* サヨナラCOLOR - 2005年、竹中直人監督、主演。高校の同窓会の司会役で出演。
* 妖怪大戦争 - 2005年、三池崇史監督。神木隆之介主演。妖怪ぬらりひょん役で出演。主題歌も手がけた。
* シャウト・オブ・アジア - 2005年、玄真行監督。ドキュメンタリー映画。
* さくらん - 2007年、蜷川実花監督。忌野は遊郭の客としてカメオ出演。
* たみおのしあわせ - 2008年、岩松了監督、脚本。オダギリジョー主演。忌野は「変な男」役。

CM [編集]

* ダイハツ - バックに「じどうしゃ」と書かれた垂れ幕を配し、RCのメンバーがその前に横一列にやる気なさそうに座っているものであった。放映期間はごく短く、すぐに下記の三菱自動車のCFに取って代わられた。
* 三菱自動車・ミラージュ - CMソングは「ベイビー! 逃げるんだ。」(RCサクセション)。忌野自身もCMに出演した。
* PARCO - RCサクセション時代メンバーと共に出演。さらにHIS結成時にも起用されている。
* エースコック・スーパーカップ - ザ・タイマーズとしてCMソングを提供。その後、2006年に再びCMソングに採用される。
* 清水建設 - 「パパの歌」がCMソングに使われた。忌野自身も出演。
* 中外製薬・グロンサン - 路上でギターを弾き「幸せになりたいけどがんばりたくない」と歌うシーンが印象的だった。

ほか、缶コーヒーやビール、生命保険、携帯電話などCM出演は多数。 ナレーターとしての出演や楽曲の使用なども含めると網羅しきれないほどあると言ってよい。

ドキュメンタリー [編集]

* TBS「いのちの響」

関連項目 [編集]

関係人物・グループ [編集]

(50音順)

* 厚見玲衣 - 元VOW WOW(aka BOW WOW)のメンバー。末期のRCにキーボードとして加入。以後も忌野のグループNICE MIDDLEに参加し、現在も共に活動している。
* 泉谷しげる - RC・古井戸・泉谷の3組は、デビュー前から、同じライヴハウスの常連。RCの名曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、彼の事を歌っている。(泉谷は当時全く売れなかった忌野を励ますためわざと軽蔑していたらしい)
* 糸井重里 - コピーライター。RC時代から親交があり、ミニアルバム『abcd』では、全曲の作詞を担当している。
* 井上陽水 - 昔は忌野の前座をしていたが、井上のほうが先に売れたという逆転の時代があった。井上の名曲として知られる「帰れない二人」は忌野との共作であり、忌野は同曲の原曲となった「指輪をはめたい」をRCで発表している。『YOSUI TRIBUTE』では「少年時代」をカバー。
* オーティス・レディング - 忌野が敬愛してやまないミュージシャン。「去年の今頃」「Sweet Soul Music」「MTN」「オーティスが教えてくれた」などの曲中でオーティスを取り上げている。また忌野が、右利きであるにもかかわらず左手でハンドマイクを握るのは、まだオーティスをレコードで聴いたことしかなかった頃、数少ないステージ写真で彼が左手でマイクを握っていたためそれに憧れて自分も左手で持つようになったと語っている。しかし後年ビデオでオーティスを見たところ右手でマイクを握っており、その写真が実は裏焼きされたものだったことを知り愕然とする。ちなみに憧れの地メンフィスに初めて行っていきなり感動したのは、乗ったエスカレーターが「オーティス・エスカレーター」だったこと。ホテルのエレベーターもオーティス社製のもので「本場は違う」と洒落で記念写真を撮った。
* 岡部好 - ライブハウス・屋根裏時代から忌野清志郎の写真を撮影してきた写真家。2002年に、その22年間の集大成となる写真集『清志郎』発表。
* 小川銀次 - クロスウィンドのメンバー。エレキ化したRCのギターとして活動するも、脱退。

* 春日"ハチ"博文 - カルメン・マキ&OZのメンバーとして知られている。70年代半ばを過ぎた頃より、RCにギターとしてたびたび参加。エレキ化していくRCの発展に一役買った。RC末期にもドラムとして参加している。口癖は「つうかさぁ〜」と「思うにィ〜」。
* 加奈崎芳太郎 - 元・古井戸のヴォーカリスト。忌野とはデビュー以前からの友人。ソロ活動に協力。
* 金子マリ - エレキ化した頃よりRCとたびたび共演。『RHAPSODY NAKED』、『コブラの悩み』、『PLEASE』などで、ゲスト参加時の共演を聴くことができる。35周年記念イベントにも参加。忌野も金子のグループに楽曲を提供するなどしており、親しい。
* 木梨憲武 - 木梨憲武+忌野清志郎のユニットで曲「ガンバレ日本(フーリガンがやって来るヤーヤーヤー)」で2002年にCD発売している。
* ザ・クロマニヨンズ - 甲本ヒロト、真島昌利の2人はブルーハーツ、ハイロウズ、クロマニヨンズを通して忌野のステージにゲスト参加するなど交流をもっている。ハイロウズ時代には、忌野清志郎35周年記念RESPECT!のステージで「テクノクイーン」を演奏した。また、甲本は忌野の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルをとっている。
* 小林和生 - リンコ・ワッショー、林小和生、淋呼和生などとも名乗っている。ベーシスト。RCのオリジナル・メンバーとして、忌野と20年以上も活動を共にした。

* 坂本龍一 - 「い・け・な・いルージュマジック」を2人で発表。夫人(当時)の矢野顕子ともども、RCのライブにもたびたび飛び入りしている。君が代騒動の時には週刊金曜日にて対談。
* 桜井和寿 - ライブで度々共演。
* サンボマスター - テレビ番組「僕らの音楽」にて忌野と共演。「スローバラード」を熱唱した。
* G2 aka 柴田義也 - キーボーディスト。70年代後半よりサポートメンバーとしてRCに加入。後に正式メンバーとなるも1990年に脱退。
* 渋さ知らズ - 忌野と親交のあるミュージシャンが多数関わっており、2004年1月10日のライブ(DVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、忌野もほら貝とボーカルで参加。
* ジョニー・サンダース - 伝説的なパンクバンドニューヨーク・ドールズの元ギタリスト。RCのアルバム『COVERS』にゲスト参加している。ジョニー・サンダースの最後となったライブをたまたま観にいっていた忌野はステージに上げられてアンコールを1曲共演した。ジョニー・サンダースはその数週間後に死去。

* 高井麻巳子 - 元おニャン子クラブ。彼女が忌野のファンだったことから交流が始まる。発売中止騒動で話題となったRCのアルバム『COVERS』にゲスト参加。
* 高野寛 - 1992年のアルバム『thanks』収録の「泡の魔術」に忌野がゲストボーカルで参加している。なお、レコード化はされていないが、一緒に曲作りなどをしたこともある。
* 竹中直人 - 俳優。忌野、仲井戸の大ファンで映画のみならず、ステージでもたびたび共演を果たしている。ブレイク前からの友人でもあり、付き合いは深く、長い。歌唱力は歌手顔負け。藤原ヒロシと結成した古井戸のコピーバンド「高井戸」でも活動を行っていた。
* CHAR - RCを気に入り、前座として起用。そこからRCは大きくなった。現在でもたびたび共演。忌野とKJLCなどのユニットも結成。作品を発表している。仲井戸麗市とも親交が深い。
* De-ga-show - 片山広明と林栄一を中心としたフリー・ジャズ・バンド。忌野は、同バンドの2作目『続デ・ガ・ショー』のライナーノーツを執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いたところ、本当に共演アルバム『Hospital』を発表する運びとなった。
* トータス松本 - ウルフルズのボーカリスト。デビュー直後より、忌野の影響を公言。楽曲をたびたびカバー、ライブでも共演するなど、親交は深い。
* TOKIO - テレビ番組『鉄腕DASH』の企画で、松岡昌宏、長瀬智也と覆面バンドを組み福岡のインディーズバンド大会へ出場した。バンド名は「ぴんく」。担当は、G.およびCho.忌野、Vo.およびG.長瀬、B.およびCho.松岡、Dr.富岡“グリコ”義広。九州の一部のCD店限定でインディーズ盤CDも制作・販売した。

* 仲井戸麗市 - ギタリスト。RC時代は忌野と人気を二分した。現在はソロ、麗蘭などで活動中。
* 新井田耕造 - ドラマー。70年代後半よりRCに加入。末期まで活動を共にした。2007年より再び忌野とステージで共演している。

* 間寛平 - 2001年のミニアルバム「ジャングル野郎」では忌野から曲を提供された。レギュラー出演している「探偵!ナイトスクープ」では忌野を連れて探偵レポートをしたこともある。2006年2月25日大阪城ホールで行われた忌野主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」ではシークレットゲストとして登場した。
* 破廉ケンチ - RCのオリジナル・リードギタリスト。70年代後半に脱退。
* ヒルビリー・バップス - 楽曲「バカンス」を忌野から提供された。なお、同バンドのVo.宮城宗典の自殺後に行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツより残された人のために」という名言を吐いて忌野自身がこの曲を歌い上げた。
* Booker T & The MG's - 忌野が尊敬するオーティス・レディングのバックバンドとして活躍。また単独でもインストゥルメンタル作品を発表している、世界的に評価されているバンド。忌野のソロアルバム『MEMPHIS』のバックを担当し、ツアーも行った。その後も忌野はギタリストのスティーヴ・クロッパーと親交を深めていき、彼をプロデューサーとして迎えた『夢助』などを発表している。
* ブルーデイ・ホーンズ - 梅津和時、片山広明によるホーンセクション。両人は、多彩なソロ活動を行いながらも、RCおよびソロ転向後の忌野と活動を共にする。

* ホフディラン - ワタナベイビーのソロアルバムに忌野との共作「坂道」を収録。同曲では忌野はコーラスでも参加している。

* 三浦友和 - 俳優。中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同級生。デビュー前のRCに参加していた。
* 三宅伸治 - RCに大きな影響を受け、バンドを始める。MOJO CLUBを結成。スタッフとしてRCのレコーディングやツアーにも参加。後に忌野と共にザ・タイマーズ、スクリーミング・レビュー、リトル・スクリーミング・レビューなどを結成。ソロでも頻繁に共演、共作している。現在、忌野清志郎&NICE MIDDLE のリードギタリスト兼バンマス。宮崎県出身。TBS戸正啓プロデューサーと宮崎南高校の同級生で一緒に浪人生活を送った。
* モップス - 鈴木ヒロミツ率いるGSロックバンド。デビュー間もない頃にRCはその前座を務めていた。清志郎はモップスにも、楽曲を提供している。
* 森川欣信 - オフィスオーガスタ社長。キティレコードのディレクターだった時にRCの『RHAPSODY』を手がけた。アコースティックトリオだった頃からのRCの大ファンであり、忌野とは公私に渡って親しい。連野城太郎のペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した。

* 矢野顕子 - たびたび共演している忌野の友人。以前はN.Yと日本でFAXでのやり取りをしていた。近年は矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている。矢野の楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」はRCのナンバー「山のふもとで犬と暮らしている」のアンサーソングといわれている。また、忌野のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲もステージで披露している。
* ゆず - RCファン、忌野ファンを公言。忌野関連のイベントにも多数出演し、「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」等を披露している。
* YO-KING - 倉持陽一。真心ブラザーズでデビュー。エレファントラブ名義の活動では、忌野をフィーチャーしたシングル「STAY GOLD」を発表。真心時代にはRCの楽曲、「キモちE」をカバー。また、35周年記念コンサートでは「ドカドカうるさいR&Rバンド」もカバーし、たびたびライブやTVなどで共演もしている。忌野も真心ブラザーズのトリビュート「真心COVERS」に参加し、カバー曲「素晴らしきこの世界」を発表。これに応えている。

* RHYMESTER - 忌野清志郎デビュー35周年記念の楽曲「雨上がりの夜空に 35」に客演。KING同士の楽曲ということで話題になった(RHYMESTERはKING OF STAGEの異名を持っている)。
* レニー・クラヴィッツ - RCの『Baby a Go Go』を担当したミキサーのヘンリー・ハーシュつながりで交流がある。初来日時は忌野の呼び込みでステージに登場した。
* Leyona - たびたび忌野と共演。もともとRCやザ・タイマーズのファンだったこともあり、親交は深い。仲井戸麗市のプロデュースによる作品もあり、忌野のプロデュースで「500マイル」も発表している。忌野泉谷スパイスマーケットにも参加。

脚注 [編集]

1. ^ a b 『瀕死の双六問屋』文庫版・あとがき
2. ^ 1992年1月18日『朝日新聞』
3. ^ 1999年10月25日『西日本新聞』
4. ^ 付録として特性CDが添付されている。収録曲は、「瀕死の双六問屋のテーマ」「遠いシナリオ」「フリーター・ソング」「瀕死の双六問屋 エンディング・テーマ」。

主な文献 [編集]

* 愛しあってるかい(JICC出版局 1981年)
* 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、六興出版 1987年・河出文庫 2000年)
* GOTTA!忌野清志郎(忌野清志郎伝、角川文庫 1988年)
* 遊びじゃないんだっ!(RCサクセション20周年記念、マガジンハウス 1990年)
* 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、ロッキング・オン 1991年)
* 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」(角川書店 1992年)
* 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 河出書房新社 1995年)
* 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、光進社 2000年)
* ロック画報・2002年10月号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(ブルース・インターアクションズ 2002年)
* 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して(宝島社 2006年)
* 地球音楽ライブラリー 忌野清志郎(東京FM出版 2006年)

ほか多数

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9
%87%8E%E6%B8%85%E5%BF%97%E9%83%8E


忌野清志郎公式HP
地味変


























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posted by zara at 00:06| Comment(0) | TrackBack(19) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする