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2009年07月07日

二条城重文障壁画 踏み抜かれる

重文・狩野派の障壁画を破損 二条城、運搬作業中

 京都市は7日、世界遺産・二条城(中京区)の障壁画(重要文化財)を城内模写室へ運搬する際、作業員が誤って踏み、破損したと発表した。
 破損したのは二の丸御殿遠侍一の間の「紙本金地著色竹林群虎図(しほんきんじちゃくしょくちくりんぐんこず)」の1面で、縦約1・6メートル横約2・1メートルの障壁画。1626年に狩野派の絵師が描いたとされる。
 市によると、7日午前11時半ごろ、市から運搬を委託された民間作業員(25)が一の間内から運び出すための準備をしていた際、床に仮置きしていた障壁画の金箔(きんぱく)が張られた部分を誤って踏んだ。長径29センチ短径25・5センチと、縦18センチ横17センチの2カ所がへこみ、一部絵の表面が破れた。
 図柄は破損しておらず、市はへこんだ金箔部分の裏地を支える応急修理で対応する。本格的な修理は文化庁と協議する。
 当時、市の学芸員2人が作業を監視していたが見逃したといい、元離宮二条城事務所の奥美里所長は「深くおわびする。作業手順を見直していきたい」としている。
 二条城の障壁画は約2000面あり、954面が重文に指定されている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090707-00000049-kyt-l26


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重文・二条城の障壁画 作業員が誤って踏み抜く

 京都市は7日、国指定重要文化財である二条城の障壁画「紙本金地著色竹林群虎図(しほんきんじちゃくしょくちくりんぐんこず)」46面のうちの1面(縦約1.6メートル、横2.1メートル)を作業員(25)が過って踏み破り、金箔(きんぱく)部分に二つの穴(縦18センチ、横17センチと縦29センチ、横25.5センチ)が開いたと発表した。市によると、15万円ほどかければ修復可能だという。

 市元離宮二条城事務所によると、障壁画は徳川家光時代の1626(寛永3)年に狩野派の絵師が描き、二条城二之丸御殿遠侍一之間に飾られていた。

 市は72年から随時、障壁画の修復・模写作業を続けている。破損した障壁画は7日午前、二条城内の模写室に移動させるため作業員が壁から取り外した。しかし、雨が降ってきたため、搬出口を雨よけのシートで覆う間、一之間の出口付近の床に置いていたところ、作業員が過って障壁画の上の方の部分を踏んだという。一之間には作業員8人、学芸員2人、修復会社の関係者2人がいた。

 同事務所の奥美里所長は「貴重な文化財を不注意で傷つけ申し訳ない。最大の注意を払って取り扱うべきだった」と話している。

 二之丸御殿には1035面(うち954面が重文)の障壁画があり、昨年度末までに624面の修復・模写作業が完了している。

http://www.asahi.com/national/update/
0707/OSK200907070117.html



どんな作業にもヒューマンエラーと言うのは付いてくるものですが。。。直せば良いってもんじゃないですしねぇ。。。

あ〜らら、こらら〜




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2009年07月06日

パチンコ店放火容疑者逮捕

パチンコ店火災 山口県警に出頭の男を逮捕

 大阪市此花区四貫島のパチンコ店「cross−ニコニコ」が放火され、4人が死亡、19人が重軽傷を負った事件で、山口県警岩国署に6日、「自分がやった」として男が出頭した。此花署捜査本部によると、出頭したのは、此花区に住む男(41)で、供述と状況が矛盾しないことから、現住建造物等放火や殺人などの容疑で逮捕した。

 捜査関係者によると、逮捕容疑は、男が5日午後4時15分ごろ、パチンコ店の南東側出入り口から押し入り、バケツに入っていたガソリンのような液体をまいてマッチで放火。客ら男女4人を死亡させ、19人に重軽傷を負わせたほか、パチンコ店約400平方メートルをほぼ全焼させたとしている。

 捜査本部などによると、パチンコ店の防犯カメラ映像には、男がバケツの液体をまき火を放つ様子が写っており、黒いTシャツを身につけていたという。また、パチンコ店から南東約800メートルのホームセンターでは、バケツとガソリン用の赤い鉄製の携行缶、マッチを購入する客の男が写っており、服装などもこの男に酷似しているという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090706-00000611-san-soci



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パチンコ店放火事件、容疑の41歳男を逮捕 山口で出頭

 大阪市此花区でパチンコ店が放火され、4人が死亡、19人が重軽傷を負った事件で、大阪府警は6日、現住建造物等放火と殺人などの疑いで41歳の男を逮捕したと明らかにした。府警によると、男は山口県警に出頭したという。事件当日の5日午後、現場近くのホームセンターでガソリン携行用のタンクを購入したり、タンクを持って近くのガソリンスタンドでガソリンを買ったりした男がおり、府警は周到に準備した犯行とみて、男の身柄を大阪府警に移送して取り調べる。

http://www.asahi.com/national/update/
0706/OSK200907060092.html




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2009年06月12日

白髪のメカニズム解明

<白髪>仕組み解明…再生医療応用に期待 東京医歯大など

 老化によって白髪になる仕組みを、東京医科歯科大や金沢大などが突き止めた。加齢に伴って、黒髪のもとになる色素幹細胞の遺伝子に損傷が蓄積するためという。アンチエージングや再生医療への応用につながるといい、12日付の米科学誌セルに掲載される。

 色素幹細胞は毛根と皮膚との間にあり、黒髪のもとになる色素細胞をつくっている。年をとると、この幹細胞が減って枯渇し白髪になるが、なぜ枯渇するかはなぞだった。

 生物は年をとるとともに、遺伝子の損傷が蓄積していく。研究チームは、遺伝子の損傷を起こす放射線を浴びせ、マウスを老化と似た状態にした。色素幹細胞を調べると、幹細胞が分化し再生能力を失っていた。この結果、色素細胞が足りなくなり、白毛になるという。

 西村栄美・東京医科歯科大教授(幹細胞医学)は「他の老化現象の理解にも役立つほか、抗白髪剤の開発やアンチエージング、再生医療への応用などが期待される」としている。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090612-00000002-mai-soci



東京医科歯科大や金沢大などの研究チーム、白髪の原因は「DNAの損傷」と解明

日本の研究チームによって、世界で初めて白髪の原因が明らかにされた。
これまで謎だった「白髪ができる仕組み」。
老化やストレスなどが原因とされてきたが、マウスによる実験で、白髪の原因が解明されたという。
東京医科歯科大学の西村栄美教授は「白髪の原因として、1つにはDNA、われわれの遺伝子情報に傷がつくと、毛に色がつけることができなくなって白髪になる」と語った。
東京医科歯科大や金沢大などの研究チームによると、毛根にある色素をつくる単細胞は、分裂を繰り返すことで髪を黒くするための色素を送っている。
ところが、DNAに傷がつくと、髪の毛に色素を送る際に複製をつくれなくなり、細胞が枯渇してしまうため、白髪になってしまうのだという。
西村教授は「白髪以外の老化現象を抑えるのにも、今後、発展していく可能性というのはあるかなと」と語った。

http://www.fnn-news.com/news/headlines/
articles/CONN00157051.html



最近めっきり気になるんだよね、白髪。。。将来は白髪予防の薬とか作られるんだろうか。更には不老不死の薬とかね。









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posted by zara at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月09日

山口秋芳プラザホテル廃業

山口CO中毒 「山口秋芳プラザホテル」が廃業

 一酸化炭素(CO)中毒事故を起こした山口県美祢(みね)市の山口秋芳(しゅうほう)プラザホテル(本社・北九州市、安方和馬社長)は9日、同県宇部市の宇部環境保健所に旅館業と飲食業の廃止届を提出した。いずれも受理され廃業が決まった。

 ホテルの登記簿によると、北九州市内の広告会社が07年10月に名称変更し、現在の名称になった。安方社長はこの広告会社の取締役だった。ホテルの土地・建物は、広告会社の同族の看板用資材会社が03年に買収し、今も所有している。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090609-00000031-maip-soci



中毒事故のボイラー排気、CO濃度3万ppm超

 山口県美祢(みね)市の「山口秋芳プラザホテル」で起きた一酸化炭素(CO)中毒事故で、経済産業省原子力安全・保安院は8日、事故当時に稼働していた給湯ボイラーの排気には致死量を大幅に上回る3万ppm以上のCOが含まれていた、と発表した。同保安院は、何らかの原因でボイラーが不完全燃焼し、発生した高濃度のCOが、ふたでふさがれた煙突から外部へ排出されずに建物内に充満したとみており、専門家による調査委員会を設け、不完全燃焼の原因などを調べる

 同保安院は5、6日、ボイラーの燃焼実験を行い、排気口に一酸化炭素濃度測定器を挿入したところ、測定上限である3万ppmが表示された。測定開始から数秒で3万ppmに達しており、実際には3万ppm以上とみられる。同保安院幹部は「機器の燃焼状態が相当悪かったことを示す異常な数値」としている。

 死亡した関西美術印刷(奈良市)所属のカメラマン、川副浩明さん(26)(京都府木津川市)らは、ホテル3階の客室で一酸化炭素中毒に陥ったが、ボイラーを30分間燃焼させた実験では、3階の非常階段付近で5000ppm超のCOが測定された。

 ボイラーはホテル屋根上の煙突につながっているが、先端部は金属製のふた(縦70センチ、横67センチ)でふさがれており、排気管内にたまったCOが3階に漏出したとみている。

 財団法人・日本中毒情報センター(茨城県つくば市)によると、空気中のCO濃度が1000ppmを超えると、意識低下などの症状が表れ、5000ppmでは5分で死に至るという。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/
20090609-OYS1T00227.htm



殺人ホテルや〜


悲劇、なぜあの日に 山口CO中毒、2年前から同じ状態

 2年以上前から同じ状態なのに、なぜ悲劇になったのか。山口県美祢市の山口秋芳プラザホテルで起きた一酸化炭素(CO)中毒事故は、経済産業省の調査で、ボイラーが不完全燃焼を起こして高濃度のCOが発生し、煙突(排気筒)がふたで覆われていたために室内に漏れた疑いが強まった。1人が亡くなった事故から9日で1週間。だが、原因が解明されるまで時間がかかりそうだ。

 製造業者によると、事故のあったボイラーは98年製で常時10〜50ppmのCOを排出するが、この程度では人体に影響はない。だが、経産省の調査ではボイラーから3万ppm以上のCOが検出された。致死量の10倍という超高濃度だ。

 これらのデータから、経産省はボイラーの不完全燃焼でCOが発生したとみる。だが、県警によると、ホテル従業員らはこの半年間はボイラーに不完全燃焼の表示や警報が出たことはないと話しており、事故当日も異状はなかった。

 ホテルには2基のボイラーがあり、事故を起こしたのは古い方。製造業者の説明では、2年ほど前に故障して一度は撤去されたが、その後再び地下1階のボイラー室に設置されていたという。ホテル側は「2対1の割合で古いボイラーも使っていた」と説明。ただ、いつ稼働させたか、詳しい記録はないという。業者側は「稼働率が高かったり、長期間使用してなかったりすれば、故障の可能性は高くなる」と指摘している。

 ふたで閉じられ、破損があったとされる煙突の構造もよくわかっていない。煙突は70年のホテル建築当初からあったが、ふたはなかった。だが、ホテル側は「07年に経営を引き継いだ時には、ふたがあった」。経産省の担当者は「言語道断だ。車のマフラーにふたをしているような危険な状態」と批判し、専門家らも「考えられない」と首をひねる。

 地下から屋上まで壁に埋め込まれている排気筒の詳しい図面はなく、壁の一部を壊さないと確認できない。県警は具体的な破損場所も特定できていない。

 一方、死亡したカメラマンの川副浩明さん(26)は室内で倒れた状態で発見され、重症となった看護師の女性(23)は部屋に入った途端に意識を失ったとされる。2人が倒れた3階西側の2部屋のCO濃度は比較的低く、部屋の近くに設置された非常階段近くで致死量を超える5千ppmのCOが検出された。県警は、ボイラーから発生した高濃度のCOがどのように室内に流れたかについても解明をめざす。

http://www.asahi.com/national/update/0608
/SEB200906080046.html


この件に関する過去記事
秋芳洞近くのホテルでCO中毒


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2009年06月04日

週間新潮 大手新聞に喧嘩売る

新聞業界最大のタブー? 週刊新潮が「押し紙」特集記事

実際には配られない新聞が大量に販売店に押しつけられているとされる、いわゆる「押し紙問題」をめぐり、新たな波紋が広がっている。週刊新潮が、この問題を4ページにわたって特集したところ、新聞3社が、広告の表現などについて抗議文を送付したのだ。一方、記事を執筆したジャーナリストは、「問題が表沙汰になったことに意味がある。新聞社は紙面で反論なり裁判を起こすなりすればいい」と一歩も引かない構えだ。
新聞側は記事の訂正・謝罪などを要求

波紋を広げているのは、「週刊新潮」6月11日号(首都圏では2009年6月5日発売)に掲載された「『新聞業界』最大のタブー『押し紙』を斬る/ひた隠しにされた部数水増し」と題した記事。この問題を長く取材しているフリージャーナリストの黒薮哲哉さんが執筆している。記事では、滋賀県の読売新聞販売店の店主をしていた男性が、新聞紙の配達状況についての実態調査を行ったことを紹介。その結果から、新聞社から販売店に届けられるものの、実際に読者には配達されない「押し紙」の割合を推定した。記事では、

「『押し紙率』を見てみると、大手4紙については読売18%、朝日34%、毎日57%、産経57%だった。4紙の平均でも、公称部数の実に4割以上が『押し紙』だった」

と結論づけている。

また、6月5日の朝刊各紙に掲載された同誌の広告には、

「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに棄てられていた―」

という見出しが躍った。

これを受けて、広告で名指しされた形の新聞3社は抗議文を週刊新潮編集部宛に送付。各社は

「(調査結果は)実態と異なり、まったく信用できない」(朝日)
「広告は、読売新聞の発行部数の18%が配達されずに棄てられていたとの印象を一般の読者に与えるが、事実と異なっており、看過できない」(読売)
「客観性に欠ける調査を根拠にしており、信ぴょう性がなく、毎日新聞の名誉を著しく棄損する」(毎日)

などと主張。特に毎日新聞については、損害賠償請求を含む法的措置を検討することも明らかになっている。

だが、週刊新潮側も、一歩も引かない構えだ。週刊新潮編集部では、

「『記事の訂正・謝罪』に応じるつもりはありません。今回の記事は、タイトルにもあるように『短期集中連載』です。『反論』という形になるかどうかは未定ですが、抗議があったことについては、今後、連載の中で触れる予定です」

とする一方、記事を書いた黒薮さんは、

「不思議なのは、抗議の主な対象が広告表現だということです。記事の内容そのものについて、どう考えているのか知りたいところです。むしろ、これを機会に、問題が表沙汰になったことに意味があると思っています。新聞社側も異論があるのであれば、紙面で反論を展開するなり、裁判を起こすなりすればいい。公の場で決着を付けるのが良いのでは」

と話す。
朝日、毎日、読売とも「『押し紙』はありません」

この問題で特徴的なのは、主に広告表現が問題視されたことだ。ところが、今回抗議文を送った3社の紙面には、問題の表現がそのまま掲載されている。各紙では広告の表現などについて審査を行っており、問題がある表現だと判断されれば、その部分が削除されたり、「黒塗り」にされることもある。今回のケースでも、「抗議するくらいならば、事前に『黒塗り』にする」という選択肢もあったはずだ。この点については、各社は

「『表現の自由』の観点もあって事前に広告掲載を制限することは適切な行為とは考えておらず、なるべくそうした措置はとらないようにしています」(朝日新聞社広報部)
「明らかに誤った記述だったため、社内で対応を検討しました。その結果、広告をそのまま掲載し、厳重抗議した事実をあわせて報道することにしました」(毎日新聞社社長室広報担当)
「広告については、表現や内容によって制限することもありますが、なるべく制限することなくそのまま掲載するようにしています」(読売新聞東京本社広報部)

と説明。「押し紙」については、

「『押し紙』はありません。弊社がお取引している新聞販売店は、必要な部数を注文し、弊社はそれに基づく部数を送付しています。弊社が注文部数を超えて送付したり、注文と関係のない部数を送付したりすることはありません」(朝日)
「本社は販売店からの注文部数に応じて新聞を送っており、ご質問にあるようなことは把握していません」(毎日)
「『押し紙』はありません」(読売)

と、従来どおり、その存在を否定している。

http://www.j-cast.com/2009/06/04042577.html


ノルマ達成と押し紙


新聞社は販売部数拡大と広告費収入の維持・増益を目的として、しばしば「目標数○○万部」などと契約上の優越的地位を利用して過大なノルマを販売店に課すことがある[7]。販売店に新聞紙を押しつけている形になっているため、「押し紙」[8]と呼ばれている。違法行為を意味するこの呼称を避けるため、朝日新聞の場合は「アジャスタブル目標」など様々な名称を用いる。

販売店は新聞社に対して従属的な立場にあり、要求を拒めば販売店契約の解除を暗にほのめかされるなど不利な状況に追い込まれるため、「押し紙」を受け入れざるを得ない。新聞社は販売店に「押し付けた」時点で利益を計上することができるが、販売店は売れ残った新聞の代金も新聞社に一方的に支払い続けなければならない。

全国の日刊紙で発行部数の2割程度、約1000万部が「押し紙」として日々廃棄されているという。月刊誌・財界にっぽんによれば、元販売店と新聞社との民事訴訟で実売2000部に対し押し紙が3000部だったケースも報告されている。2007年秋に総部数2010部となっているところ、実際に読者に配達していたのは1013部と5割もの新聞が押し紙となっている例もあるという。新聞各社は押し紙の存在を否定するが、ネットなどでは良くその存在が既定事実として語られる。

「押し紙」の存在は販売店にとって大きな経済的負担になっており、経営に行き詰った元販売店が新聞社を相手取って実際に訴訟をおこすケースもある。また、新聞社は広告主に対し公称部数を元に広告枠を販売しているため、「押し紙」を差し引いた実売部数が明らかになれば、「押し紙」分だけ新聞社の広告費収入や販売店の貴重な収入源であるチラシ収入が減少する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0
%E8%81%9E%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E5%BA%97



J-CASTの2009年1月2日の記事

新聞の20%以上は配達されない 「押し紙」という新聞社の「暗部」
(連載「新聞崩壊」第4回/フリージャーナリスト・黒薮哲哉さんに聞く)


読売1000万部、朝日800万部、毎日400万部……巨大部数を誇る全国紙。それだけ影響力が大きい「証」でもある。しかし、その部数に「暗部」を指摘する声もある。「押し紙」と呼ばれる配達されない新聞だ。全体の2割以上はある、というのが関係者の見方だ。ただ、新聞社側はその存在を認めていない。この問題に詳しいフリージャーナリストの黒薮哲哉さんに話を聞いた。

悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5〜6年

――押し紙問題(*メモ参照)は、最初はどういうきっかけでいつごろ始まったのでしょうか。

黒薮 はっきりしませんが、かなり昔から続いています。ただ、初期のころは新聞の部数が伸びていたときで、新聞社がノルマとして多めの新聞を搬入しても景品をつければ読者を増やすことは難しくなかった。だから販売店にとってそれほど大きな負担ではなかったようです。

――それが販売店にとって迷惑なものへとその性格が変わったのはいつごろからですか。

黒薮 これもかなり以前からですが、本当にひどくなって悲鳴を上げる販売店が増え始めたのはここ5〜6年でしょうか。

――そもそも販売店は、なぜ押し紙を断らないのでしょうか。実際には読者から集めることができない押し紙分の「新聞代」を負担して新聞社に納めないといけない訳で、損をするのではないですか。

黒薮 まず、新聞に折り込むチラシの収入があります。チラシの搬入枚数は、販売店が扱う新聞の総部数に準じるので、押し紙で部数を増やせばチラシの枚数も増える仕組みになっています。ですから押し紙が多ければ多いほど、チラシの収入も増えます。さらに新聞社が販売店へ補助金を支給します。つまりチラシの水増し収入と、押し紙で生じる損害を相殺するカラクリがあるのです。しかし、最近はチラシ収入が激減しています。補助金の全体像は正直つかめていませんが、少なくとも増えてはいないようです。当然、販売店は押し紙の損害を相殺できなくなってきました。それにもかかわらず新聞社と販売店の力関係は、販売店が圧倒的に弱者です。押し紙を断れないのです。それで不満の声を上げる販売店主たちが出始めた、というのが現状です。

――なぜチラシ収入が減ったのですか。

黒薮 複数の要素があります。各戸の郵便受けに直接チラシを入れるポスティング業者の登場も要因のひとつです。フリーペーパーやインターネット広告にチラシの役割を奪われた部分もあります。また、広告主の意識の変化も挙げられます。押し紙の存在が知られるようになり、新聞に折り込んでチラシを配っても本当にそんなに多数の読者の手元に届いているのか疑っている広告主もいます。また、広告による宣伝効果にも疑問を持ち始めているようです。ある不動産業者を取材すると、以前は2色刷りの新聞チラシで相当の効果があったが、近年は7色刷りの手の込んだチラシを配っても反応がない、と嘆いていました。勿論、最近では景気の影響もあります。

――実際にどの程度が押し紙なのでしょうか。

黒薮 全国的なデータはありません。個別の販売店を取材してきた私の推測では、おおむね3〜4割は押し紙だとにらんでいます。もっとも地方紙は別です。地方紙の場合、押し紙をしてでも大部数にみせかけ、広告の媒体価値を競い合う必要性は全国紙に比べて薄いようです。

書類の上では押し紙はないことになっている

――4割というのはちょっと多すぎる気もしますが、具体例はありますか。

黒薮 新聞社も販売店名も分かっています。例えば九州地区のある全国紙の販売店では、07年秋に総部数2010部となっているところ、本当に読者に配っていたのは1013部でした。押し紙が997部、5割弱という計算になります。大阪では押し紙が7割という店もありました。首都圏の少ないところでも2割はあるかな、というのが実感です。必要な予備紙を計算に入れても実態は大して変わりません。

――新聞の部数は、日本ABC協会(新聞雑誌部数公査機構)が発表していますが、信頼性がある数字だと見られています。押し紙は見抜けないのでしょうか。

黒薮 ABCの数字は基本的に販売店へ搬入している部数であって、実際に配達されている数字ははっきりしません。協会の役員には各新聞社関係者がずらりと顔をそろえています。広告主側の役員もいる訳ですが、あえて押し紙に抗議して新聞社とことを構えたくはないでしょう。新聞社を相手にするのは大変です。たとえば私は、押し紙問題を取材する過程で、読売新聞西部本社サイドから2件の訴訟を起こされました。押し紙問題が表沙汰になることに相当な危機感を抱いたのだろう、と私は感じています。また、新聞社の関係者でも販売局以外の人は、押し紙の実態はよく知らないのかなという気もします。

――新聞社側は、押し紙の存在を認めているのでしょうか。

黒薮 認めていません。違法行為なので認めるわけにはいかないのでしょう。実際、販売店側が作る書類の上では押し紙はないことになっています。新聞社から、拡販しろというプレッシャーが強く、新聞拡販のノルマが達成できなければ、「怠け者」と見られてつぶされかねません。そんな状況で、自ら「実配部数」欄に押し紙を含んだ数を書き入れて、営業成績をよく見せるケースがあるのです。しかし、新聞社側からすれば、販売店が勝手にウソの数字を書き込み、信頼関係を裏切られたと主張することも可能なのです。

――そうした実態が垣間見える裁判があったそうですね。

黒薮 福岡県・筑後地区のケースです。裁判自体は、読売新聞側から解任された販売店主が地位保全を求めた訴訟です。07年12月、最高裁が読売の上告受理申し立てを退けるかたちで判決が確定したのですが、解任理由とされたのは、先ほど説明した「ウソの実配部数報告」でした。しかし、裁判の中で、「ウソの報告」をするまでに店主を追い込んだ新聞社側の体質が優越的地位の濫用にあたると指摘され、販売店の改廃は認められませんでした。

――今後どうなるでしょうか。

黒薮 チラシの減少も深刻ですが、そもそも読者も減っています。50代以上はともかく、それ以下の世代は本当に新聞を取らなくなっています。読売1000万部云々と言われ始めて10年以上たっていますが、ネットの急速な浸透で、実感として読者はここ最近相当減っているはずなのに、いまだに公表部数については、以前とほとんど同じ数字のまま。ということは、押し紙が増えていると推測できます。販売店側はもうそれを吸収できないのです。現在のような販売システムは、早晩崩壊すると予測しています。

――新聞社はどういう対策を取るのでしょうか。

黒薮 個人経営の販売店ではなく、新聞社側の資本も入った販売会社を増やしているようです。販売会社は、ある意味新聞社と一体の組織なので、押し紙に伴う金の流れも融通が利くようです。

――自主廃業する販売店は増えていますか。

黒薮 増えています。しかし、この業界は意外と縦社会というか、だれそれさんに以前世話になったので顔をつぶせないとか、外部の人間が考えるほど簡単にやめることができる訳ではなさそうです。とはいえ、経営不振のある新聞社では、普通の説得工作では追いつかないほど辞めたがっている店が出ています。このため、押し紙を減らす動きも出ているようです。閉店されてしまうと、後のなり手がいないからです。

<メモ:押し紙問題>
新聞社が、個人経営などの新聞販売店に対し、実際に読者に配達している部数より多くの新聞を「押しつけている」とされる問題。配達時に新聞が濡れたときなどに備える必要な「予備紙」(注文部数の2%まで)数を大きく上回っていると見られている。新聞社にとっては、部数が多いことは紙面広告を取る際に有利に働くことが背景にあると指摘されている。独占禁止法で禁じられている行為だ。
例えばこういう仕組みだ。新聞社がある販売店に1000部を搬入する。しかし、その販売店が本当に配っている新聞は800部だとする。するとその差の200部の大半が「押し紙」ということになる。対外的には、「この地区でうちの新聞は1000部も読まれています」と主張するという訳だ。新聞社側はその存在を認めていない。

黒薮哲哉さん プロフィール
くろやぶ てつや 1958年、兵庫県生まれ。フリージャーナリスト。1992年、「説教ゲーム」(改題:「バイクに乗ったコロンブス」)でノンフィクション朝日ジャーナル大賞「旅・異文化」テーマ賞を受賞。著書に「新聞ジャーナリズムの『正義』を問う」「新聞があぶない」「崩壊する新聞」など。

http://www.j-cast.com/2009/01/02032889.html






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菅家利和受刑者釈放 動画あり

釈放の菅家さんが会見「警察と検察、絶対に許せない」

 栃木県足利市で1990年、当時4歳の女児が誘拐・殺害された「足利事件」で無期懲役が確定し服役中だった菅家(すがや)利和受刑者(62)が4日、千葉刑務所から釈放され、同日夕、千葉市内で弁護団と共に記者会見を開いた。

 菅家さんは、「当時、急に犯人にされました。自分としては全く身に覚えがありません。無実で、犯人ではありません。これだけははっきりと言います」と語り、改めて無実を主張した。

 また、警察、検察に対しても、「間違ったでは済まない。この17年間ずっと思っていた。当時の刑事、検察官には謝ってもらう。絶対に許すことはできない。自分の人生を返してもらいたい。父も母もつらかったと思う」と怒りをあらわにした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090604-00000737-yom-soci



【足利事件】釈放の菅家さん「真犯人を絶対に許さない」

 「今日は本当にありがとうございます。釈放になりうれしく思っています」。逮捕から17年余り。服役していた千葉刑務所から釈放された菅家利和さんは、千葉市内で開かれた記者会見で、失われた時間を振り返りながら、一語一語を噛み締めるように喜びを語った。一方で、逮捕した栃木県警の刑事や起訴した検察官らに対しては「間違ったでは済まない。絶対に許さない」と怒りを込めた。

 短い髪に眼鏡をかけた菅家さん。逮捕時に比べてしわが増えた顔に、長すぎた刑務所での日々が刻まれる。かけつけた支援者から「おめでとう」と声をかけられながら会見場に入ってきた菅家さんの表情は、明るく穏やかだった。

 「一生懸命頑張ってきました。弁護団や支援してくださった皆さんのおかげです」と現在の思いを語り始め、無実を信じながら服役中に亡くなった両親には「(自分が捕まり)辛かったと思います。墓参りに行きたい」と述べた。

 再鑑定でDNA型が菅家さんと一致しなかったとの報告を、弁護団から受けた際には、同部屋の受刑者から「良かった、良かった」と声をかけられ握手したという。

 捜査当局に対する思いについて話題が移ると、表情は一変した。「当時、私は急に犯人にされ、17年間ずっと我慢してきた。当時の刑事、検察官には、私や両親、世間の人に謝ってほしい。絶対に許すことはできない」と強い口調で非難。「刑事たちの責めがものすごかった。早く話して楽になれといわれた。やっていないと訴えたが、受け入れてもらえなかった」と当時の取り調べを振り返った。

 また、事件がすでに時効を迎えていることに対して、「真犯人を絶対に許さない。時効があってはならない」と語気を強め、「冤罪(えんざい)を訴える人たちの支援活動をしていきたい」と今後の抱負を語った。会見の途中、支援者から花束を渡される場面もあり、少し照れた様子で感謝の言葉を口にした。

 菅家さんは午後3時45分過ぎ、服役していた千葉刑務所の正門から、弁護団とともにワゴン車で出てきた。後部座席の菅家さんは窓を開け、集まった支援者らに手を振りながら笑顔で通り過ぎていった。

 集まった支援者の一人、石井進さん(70)は「感無量で胸がいっぱい。17年は長かった。菅家さんとじっくり話したい」と話していた。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/
090604/trl0906041848021-n1.htm









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2009年06月02日

秋芳洞近くのホテルでCO中毒

CO中毒13人搬送、1人死亡…秋芳洞近くのホテル

 2日午後6時過ぎ、山口県美祢市秋芳町秋吉の秋芳プラザホテルに宿泊していた客ら約30人が異常を訴え、うち13人が同市や同県宇部市、山口市の5か所の医療機関に搬送された。

 いずれも一酸化炭素中毒で意識不明の状態に陥っており、1人の死亡が確認された。山口県警は、LPガス中毒とみて原因を調べている。

 宿泊客の中には、修学旅行に来ていた大阪府高槻市の同市立松原小学校の児童72人、教員5人も含まれている。

 高槻市教育委員会によると、ホテル3階にある保健室用の部屋に女性看護師が入って間もなく倒れた。

 その後、助けに入った女性教員2人と男性1人も次々に倒れ、いずれも病院に搬送された。児童は全員無事だが、同行した写真撮影業者や救急隊員も倒れたとの情報もあるという。

 児童らはホテルに午後5時半ごろ到着。食事前に荷物を各部屋に置きに行ったところ、倒れた。松原小学校では2日に広島県内を見学し、3日に秋吉台などを見学した後に帰阪する予定だったという。

 現場は、特別天然記念物の秋芳洞から約1キロ離れた観光ホテル

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090602-00000811-yom-soci



ホテルでガス中毒10人搬送 山口・美祢、1人死亡

 2日午後6時15分ごろ、山口県美祢市秋芳町秋吉の「秋芳プラザホテル」でガス漏れが発生し、中毒症状で少なくとも10人が病院に搬送された。県警によると、うち男性1人の死亡が確認された。

 大阪府高槻市教育委員会によると、ホテルには高槻市立松原小学校の修学旅行の一行が滞在していた。教員数人が搬送されたという。

 県警によると、搬送されたのはいずれも成人。ホテルには小学生の団体が宿泊していた。小学生は無事という。県警と消防が詳しい状況を調べている。

 現場は国の特別天然記念物に指定されている「秋芳洞」の近く。

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009060201000830.html


秋芳プラザホテル
http://www.y-shuhou.5star-e.net/



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2009年05月29日

箸墓古墳は卑弥呼の墓?

箸墓古墳、240〜260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240〜260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。

 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240〜260年の範囲に相当したという。

 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしている。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。

 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090529-00000538-san-soci



奈良・箸墓古墳
「箸墓古墳の築造は240〜260年」…歴博 卑弥呼死亡時期と一致


土器年代測定…「誤差ある」反論も

 「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑弥呼がいた邪馬台国の所在地論争にも影響を与えそうだ。同グループの春成秀爾(はるなりひでじ)・同博物館名誉教授は「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは間違いなくなった。生前から墓をつくり始めていたのだろう」と話している。

 年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定した結果、導き出された。

 箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。

 今回の成果は、木の年輪が1年ごとに幅が違うことを利用した年輪年代測定法で補正していることなどから、慎重な見方もある。寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」と主張する。

 邪馬台国論争を巡って、畿内説をとる白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「分析の精度は極めて高いと認められ、造営年代に科学的な裏付けが与えられた」と指摘。

 一方、九州説の高島忠平・佐賀女子短大学長(同)は「今回の測定法で築造年代が決められるのか疑問。邪馬台国の所在地を決めるにはさらに議論をすべきだ」と語る。


http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie
/news/is90529a.htm?from=ichioshi



卑弥呼

(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)とされる人物。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。

史書の記述

『三国志』の卑弥呼

「魏志倭人伝」の卑弥呼

「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明。既に年長大であったが夫を持たず(年已長大無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩)。

「魏書帝紀」の俾弥呼

『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

朝鮮半島の書物から

朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀による。

* 173年 - 倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める(二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘)。なお中国の歴史書では356年に「新羅」となったと記述されている。(それまでの国名は 斯廬国であった。)

年譜

中国の歴史書による。

* 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
* 永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
* 倭国、男性を王とした七、八十年
* 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
* 光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
* 景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
* 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
* 正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
* 正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
* 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
* 正始八年(247年)、またはその直後
o 卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
o 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千余人が死んだ。
o 卑弥呼の宗女「壹与」を十三歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
o 女王位についた壹与は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
* 泰始元年(265年 - ) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。

呼び名

『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っているため、このような表記になっている[1]。

また他の一説には、(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。

* 日巫女(ひみこ)
* 日御子(ひみこ)
* 姫御子(ひめみこ)
* 日女子(ひめこ) - 駒沢大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
* 日向(ひみか・ひむか) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。

など諸説ある。

一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある

【現代中国語でのピンインでの表記】

卑弥呼:bei1 mi2 hu1

(俾彌呼:bi3 mi2 hu1)

掖邪狗:ye4 xie2 gou3

帥升:shuai4 sheng1

難升米:nan2 sheng1 mi3

伊聲耆:yi1 sheng1 qi2



一方で、当時の中国語から「ビミファ」だったのではないかとする説もある。その場合、「ミファ」は大神(オオミワ)神社のミワに対応し「ビ」は、女性の尊称(ビ、ベ)、日あるいは蛇とも取れ、姫神、日神、蛇神とも解釈できる(後世、そのように解釈された形跡がある)。

いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則についてはまったく説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない(少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論を基本に考察しなければならない)。

卑弥呼の死

魏志倭人伝には、卑弥呼の死については
“ 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 葬者奴碑百餘人
(卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された) ”

とのみ書かれている。

この前の記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247 年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死するをもって」つまり「死んだので」墓が作られた、あるいは、「すでに死す」と読み、直前に書かれている「拜假難升米爲檄告之」(難升米が詔書・黄憧を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「もって死す」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。

卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説が有力である。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説などがある。

天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

人物比定

卑弥呼が、『古事記』や『日本書紀』に書かれている誰にあたるか、またあたらないかが、江戸時代ころから議論されていた。ただし現代では、神話伝説を歴史的事実の反映であるとして自説にあうようにそれらしく解釈することは水掛け論を生むばかりで、あまり有意義な議論とは考えられていない[要出典]。(#卑弥呼=卑弥呼説参照)

神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。この説にたてば、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになる。

熊襲の女酋説

本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[6]。宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えを強く持っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し、倭王に封じられたという記述は、宣長の受け入れられるものではなかった。宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したと考えた。また、那珂通世は卑弥呼は九州の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。これらの説の考えは現在、九州王朝説へと引き継がれている。

甕依姫説

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であるなどと主張している。

倭姫命説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。

倭迹迹日百襲媛命説

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。

『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。

この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。

『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命について、三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、卑弥呼と同様な神秘的な存在と意識されている。また崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」の「男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼と男弟の関係に一致する。

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[7]。

日女命説

『海部氏勘注系図』に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人は別名、大倭姫(おおやまとひめ)という大和王権の女王と思われる名を持ち、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とも呼ばれる。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。日女とは後の姫、媛と同じで、個人名ではなく普通名詞である。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[8]。

古賀達也は『海部氏勘注系図』とは別の高良大社に残る「高良記」系図にある二十一代目の「天造日女命」を卑弥呼と同定している。 またその次の「天世斗命」を壹與と同定している。

天照大神説

中国の史書に残るほどの人物であれば日本でも特別の存在として記憶に残っているはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。

アマテラスの別名は「大日貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[11]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[12]。

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[13]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後の大和政権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一人であり(もう一人はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている。

この説に対する難点としては、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない事であり、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王が天と日を兄と弟としていた(「王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある。

比定できないとする説

以上の説は、「卑弥呼」に該当する人物が『記紀』や古系図に明確に特定できる形で残っているとする前提があるが、日本古代の記録の残存状況から考えると、そのようなことは期待できないとする説である。実在がはっきりしない卑弥呼を、神話的伝説上の人物に当てはめることは意味がない。

近年専門の歴史学者によって書かれた書物・論文では、卑弥呼を神話伝説中の誰かにあてるような議論は行われていない。その理由は、『記紀』の成立過程に関する史料批判が進み、ヤマト王権内部における文字使用状況から推測すると、継体天皇以前の伝承に信用を置くことはできないためである。例えば、『記紀』の記述によると、広開土王碑が伝える朝鮮半島奥深くに侵入しての高句麗との戦闘は一切伝えられていないし、倭の五王の遣使も伝わらない(倭王武の上表文によると5世紀の最も重大な外交問題は対高句麗問題であるにも関わらず)。

比較的正しい記事は、朝鮮など外国史料を参照したものである。現在の考古学は箸墓古墳を卑弥呼の墓の最有力候補と見ているから、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は卑弥呼の有力な候補の1つと考えられる。ただ、それ以外のどの説も部分的に正しいといえるため、強いて1つに定める理由もない。『魏志倭人伝』のような実録が元となっている書物と、『記紀』や古系図のような後世の編纂物を、1対1で結び付けることは学問的に正しい方法といえないという立場である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC



箸墓古墳

(はしはかこふん、箸中山古墳とも)は、奈良県桜井市箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており、3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。

概要

この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王「卑弥呼」の墓とする(=邪馬台国畿内説)向きもある。従来、構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり、卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきたが、最近、年輪年代法や炭素年代測定法による年代推定を反映して、古墳時代の開始年代を従来より早める説が有力となっており、上記の箸墓古墳の築造年代は、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が一般的になっており、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が高くなっている。

現在は、宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。

名の由来

『日本書紀』崇神天皇19月の条に、つぎのような説話が載せられている。一般に「三輪山伝説」と呼ばれている。


倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語)


なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀?)と説話の作成された時期とに大きなズレがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になった?という土橋寛の説もある。

墳形・規模

最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥形に開いている他の古墳は、兵庫県揖保川町の養久山(やくやま)1号墳、同県の権現山51号墳、京都府山城町の椿井大塚山古墳、岡山市の浦間茶臼山古墳などがある。ちなみに、浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の二分の一の相似形といわれ、長さも幅も二分の一であるが、前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがある。

現状での規模は、墳長およそ278m、後円部は、径約150m、高さ約30mで、前方部は、前面幅約130mで高さ約16mを測る。その体積は約37万立方メートル。周辺地域の調査結果から、本来はもう一回り大きかったものと思われる。

後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘(径約44〜46メートル、高さ4メートルの土壇、特殊器台が置かれていたと考えられる)がのったものと指摘する研究者(近藤義郎等)もある。前方部は、側面の段築は明瞭ではないが、前面には四段の段築があるとされる。ちなみに、5段築成(四段築成で、後円部に小円丘が載る)は箸墓古墳のみで、4段築成(三段築成で、後円部に小円丘が載る)は西殿塚古墳(大和古墳群)、行燈山古墳(柳本古墳群)、渋谷向山古墳(柳本古墳群)、桜井茶臼山古墳(鳥見山古墳群)、メスリ山古墳(鳥見山古墳群)、築山古墳(馬見古墳群)等が考えられ、他の天皇陵クラスの古墳は全て三段築成(後円部も前方部も三段築成)とされる。被葬者の格付けを表しているのかも知れない。

奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤が存在していたことが確認されている。巨大な前方後円墳がその最古の時期から周壕を持つことが分かった。

外表施設・遺物

前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。

この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪、などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また、岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。

埋葬施設は不明であるが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるという。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明している。従って、崇神紀に記す大坂山(二上山)の石ではない。

周濠は、前方部と後円部の一部分の発掘調査から、幅10m前後の周濠と幅数十m前後の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺き石を積み上げた渡り土手が見つかっている。

築造時期

墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅10mの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、古墳時代前期初頭(3世紀半ば)の築造であることが確定した。

また、箸墓古墳よりも古いと考えられている纏向石塚墳丘墓などの突出部と箸墓古墳の前方部との形状が類似していること、渡り土手を備えていること、周濠が墳丘の規模に比べ狭いことなど分かってきた。それらのことから箸墓古墳は、弥生時代の墳丘墓が飛躍的に巨大化したものであり、弥生時代の墳丘墓に続くものであると考えられている。

意義

墳丘の全長約280m、後円部の高さ約30mで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点など、それまでの墳墓とは明らかに一線を画している。 また、規模、埴輪などは以後の古墳のモデルとなったと考えられ、当古墳の築造をもって古墳時代の開始と評価する研究者も多い。

被葬者

宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。その根拠としては、

* この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること
* 後円部にある段構造が前方部で消失することから、前方部が後世に付け加えられた可能性があること
* 大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること

などが挙げられているが、現時点では正確なことは分からない。 ちなみに魏・晋時代の一里は300歩で、魏・晋時代の1里は76mとされているから、1歩はほぼ25cmとなり、100余歩は約30m弱となる。

その他

なお、桜井市教育委員会が2000年に実施した周辺部の発掘調査によって、周濠内の堆積土から木製の輪鐙(馬具)が発見されている。同時に出土した布留1式土器により四世紀のものとされるが、これにより列島内への騎馬文化の流入および東アジアにおける騎馬文化の伝播の理解が従来よりも古く修正されることになった。ただし周濠内からの出土であることから、古墳本体の築造年代とは関わりのない後世の二次的な出土物である可能性もある。

尚、織田氏の統治下では、墳丘上にお茶室が設けられていたと言う。また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていた、という。また、周濠に掛かる外堤も少し東から検出されている。

測量図を見て前方部と後円部の境目に斜めについた溝は、進入禁止になる前に村人が使用した道の跡である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%
B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3








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2009年05月20日

1〜3月期GDP戦後最悪

GDP:年率15.2%減 戦後最悪マイナス−−1〜3月期

 内閣府が20日発表した09年1〜3月期の国内総生産(GDP)速報によると、物価変動の影響を除いた実質GDP(季節調整値)は、前期比4・0%減、年率換算で15・2%減となり、戦後最悪のマイナス成長となった。また、08年10〜12月期の実質成長率も3・8%減、年率換算で14・4%減に下方修正されたため、第1次石油ショック時の74年1〜3月期(年率13・1%減)を2四半期連続で下回った。

 日本の成長率は、米国(年率6・1%減)やドイツ(同14・4%減)などを下回り、先進国では最低となった。

 マイナス成長は4四半期連続で、戦後最長。市場では4〜6月期には小幅ながらプラス成長に転換するとみられているが、再び底割れする懸念もあり、政府の追加経済対策などの効果が試されることになりそうだ。

 同時に発表された08年度の実質GDP成長率はマイナス3・5%で、98年度のマイナス1・5%を抜いて戦後最悪となった。マイナス成長は01年度(マイナス0・8%)以来7年ぶり。

 1〜3月期の内訳を見ると、特に内需の落ち込みが目立ち、4・0%の下落分のうち2・6%が内需によるものだった。急激な生産調整を受けて企業の設備投資が戦後最悪の10・4%減(昨年10〜12月期は6・7%減)、個人消費も雇用情勢の悪化や実質賃金の減少に伴い1・1%減(同0・8%減)と下落幅を広げた。消費は自動車や旅行外食など幅広い分野で落ち込んだ。住宅投資もマンションの販売不調などで5・4%減となった。

 外需は、輸出が戦後最悪の26・0%減と、08年10〜12月期の14・7%減からマイナス幅を拡大。ただ、輸入も戦後最悪の15・0%減(昨年10〜12月期3・1%増)に転じたため、外需のGDP押し下げ効果を一部相殺した。

 物価の変動を含む名目GDPは、前期比2・9%減、年率換算で10・9%減だった。

http://mainichi.jp/select/biz/news/
20090520dde001020008000c.html



景気悪化、家計部門に波及=急速な調整を裏付け−GDP

 過去最悪を更新した2009年1−3月期の国内総生産(GDP)成長率は、戦後最悪とされる昨年秋以降の急速な景気悪化を裏付ける内容となった。08年 10−12月期は米国経済の崩壊で自動車や電子部品の輸出など外需が大幅に減少したが、1−3月期はそれに加え、個人消費を中核とする内需も大きく落ち込んだのが特徴だ。
 内外需総崩れは7−9月期から続くが、今回、内需寄与度のマイナスは前期の0.6%から2.6%に急拡大した。企業の生産活動の低迷が雇用調整や所得環境の悪化を招き、その影響が家計に波及した格好だ。季節調整の結果、設備投資や輸出などの下振れにより、10−12月期の実質成長率が前期比年率 14.4%減に下方修正され、2期連続で戦後最悪を更新したことも判明した。
 ただ、2期連続二ケタ減という記録的な悪化は、生産や在庫、雇用など日本経済の調整が急速に進んだことも意味する。このため、多くの民間シンクタンクが 4−6月期のプラス成長を予想。4月以降は、定額給付金や高速道路料金値下げなどの経済対策効果が表れ、消費者心理の改善など最悪期の脱出をうかがわせる指標も出てきた。
 薄日が差し始めた日本経済だが、雇用情勢や米景気後退の長期化などリスク要因は残っており、予断を許さない状況が続くことに変わりはない。 


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090520-00000072-jij-bus_all







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2009年05月15日

今林大被告に懲役20年

今林被告に懲役20年

 福岡市東区で2006年に起きた飲酒運転による三児死亡事故で、危険運転致死傷と道交法違反(ひき逃げ)の罪に問われた元市職員今林大被告(24)の控訴審判決が15日、福岡高裁であった。陶山博生裁判長は、業務上過失致死傷罪を適用して懲役7年6月とした一審・福岡地裁判決を破棄、危険運転致死傷罪を適用して、懲役20年を言い渡した。

 判決理由で陶山裁判長は「脇見が事故原因とした一審判決の事実認定は誤り」と述べた。

 検察側は、今林被告が泥酔状態で車を運転したとして、危険運転致死傷と道交法違反の併合罪(最高刑懲役25年)で起訴。一審で検察側は懲役25年を求刑したが、福岡地裁は結審後、検察側に予備的訴因として追加させた業務上過失致死傷と道交法違反(酒気帯び運転)を併合した最高刑の懲役7年6月を言い渡した。

 控訴審で検察側は「被告はアルコールの影響で前方の車両を認識できなかった」として危険運転致死傷罪の適用を主張。弁護側は「事故は脇見運転が原因。被害車両にも過失がある」として、減刑を求めていた。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/95745


「懲役20年」…目を真っ赤に、涙流す3児の父母

 判決の瞬間、法廷がどよめいた。「原判決を破棄し、懲役20年に処する」−−。福岡高裁501号法廷に陶山(すやま)博生(ひろお)裁判長の声が静かに響くと、大上哲央(あきお)さん(36)、かおりさん(32)夫妻がひざに抱えた3児の遺影が震えた。

 1審判決を上回る重い刑が下されたことに、傍聴席の多くの人が得心した様子だったが、元福岡市職員・今林大(ふとし)被告(24)の弁護人らは「納得いかない」と反発していた。

 大上さん夫妻は黒色のスーツ姿で午前9時40分過ぎ、福岡高裁に姿を現した。哲央さんは、事故で亡くした3児の遺影をえんじ色の包みで覆い、両手で抱えていた。

 懲役7年6月だった1審判決を破棄する判決を聞くと、2人は「ワッ」と声にならない声を上げた。お互いに信じられないといった表情で目を真っ赤にはらし、涙を流していた。

 今林被告側が、「哲央さんの居眠り運転も事故の一因」と主張していたことに、裁判長が「居眠り運転をしていたとは考えられない」と明確に否定すると、安堵(あんど)の表情を見せた。

 「調子に乗るな。何様のつもりか」「金をもらっているんだろう」−−。大上さん夫妻は飲酒事故の悲惨さを訴え、メディアに多く登場して注目を集める一方、街頭やインターネットでいわれのない中傷や非難にさらされ続けた。一家は昨年末、世間を避け、事故の影響によるパニック障害療養のため、海外転居を余儀なくされた。

 大上さん夫妻の代理人、羽田野節夫弁護士によると、2008年1月の1審判決後、一家は人目を避けるように、いったん九州を出た。だが、転出先でも「テレビで見た大上さんでしょ」と頻繁に声をかけられた。ついには「大変ですね」と気遣いの言葉さえ、忌まわしい事故の記憶をよみがえらせる心理的な負担となったという。

 「2人はいつも、『人に監視されている』という思いに駆られていた」。羽田野弁護士は振り返る。

 この日の逆転判決を、大上さん夫妻のそばで聞いた羽田野弁護士は、陶山裁判長の言葉を懸命にメモに納めた。

 言い渡し後、傍聴席を立つ哲央さんの肩にポンと手を掛け、穏やかな顔で夫妻のこれまでの苦労をねぎらった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20090515-00000492-yom-soci



危険運転の適否に難しさ 福岡の3幼児死亡事故判決

 福岡市の3幼児死亡事故で懲役20年を言い渡した15日の福岡高裁判決は、事故原因の「脇見」を否定した点以外は福岡地裁判決と同じ事実認定をしながら、危険運転致死傷罪の成立を認めたことで、量刑は3倍近く重くなった。危険運転致死罪は裁判員制度の対象事件。飲酒事故の遺族は一様に判決を歓迎したが、同罪の適否を判断する難しさを示した形だ。
 2審判決は危険運転罪が規定する「アルコールの影響で正常な運転が困難な状態」を「現実に道路や交通の状況に応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態」と指摘。しかし同じ解釈だった1審判決は業務上過失致死傷罪を適用し、懲役7年6月とした。
 「危険運転罪に必要な『故意』を認めるには、検察側の立証は不十分」と述べる内田博文・九州大法学研究院教授(刑事法)は「1審判決は裁判員裁判を意識して、危険運転罪の構成要件を厳密に判断したが、2審判決は緩やかに解釈しすぎではないか」と分析。
 内田教授は「危険運転は職業裁判官でも意見が分かれる犯罪。裁判員ではもっと大きなずれが生じる可能性が高い。同罪を根本的に見直し、あいまいさをなくすことが必要だ」と提言する。
 専門家の間には判決を評価する意見もある。元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授(刑事法)は「誠に妥当な判決。事故当時のアルコールの影響を数値などの形式にとらわれず、冷静に判断した」と話す。「故意犯と認定された時点で、量刑が重くなるのは当然。今後、捜査官や裁判員はこの判決を1つの指針とすべきだ」とした。

http://www.kahoku.co.jp/news/2009/05/2009051501000939.htm

この件に関する過去記事
今林大被告に懲役7年6月判決
今林大容疑者 危険運転致死傷罪で起訴
今林容疑者 ナンパ目的でドライブ
今林容疑者 大量の水で飲酒運転隠し




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