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2007年12月03日

岡田武史代表監督誕生

岡田監督の就任が決定=常務理事会で承認、本人は受諾へ−サッカー日本代表

 サッカー日本代表の新監督に岡田武史氏(51)が就任することが3日、決まった。日本サッカー協会が同日、東京都内で常務理事会を開き、急性脳梗塞(こうそく)で倒れたイビチャ・オシム監督(66)の後任として、同氏を承認した。
 記者会見した川淵三郎会長によると、岡田氏は既に受諾の意思を示しており、7日の理事会で正式決定する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20071203-00000083-jij-spo



以前の発表では12月6日に決定するとの話でしたが。。。まあそれだけ話がトントン拍子に進んだということでしょうか?

正式発表は6日ということかな。



岡田 武史

(おかだ たけし、1956年8月25日-)は大阪市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現在はサッカー解説者、日本サッカー協会特任理事、2007年8月24日より日本エンタープライズの社外取締役。 岡ちゃんの愛称で知られる。メガネにジャージがトレードマーク。

来歴

大阪府出身。帝塚山学院小学校時代は野球に明け暮れ、南海ホークスを応援しに大阪球場へ通う野球少年だった。中学に進学して上下関係に厳しい野球部を見て自分には向いてないと思い、当時メキシコオリンピックの活躍を目の当たりにしたサッカーに熱中するようになる。青年時代、五木寛之の『青春の門』等、数冊の早稲田大学の出てくる小説を読んだことにインスパイアされ、早稲田大学入学を目指した。天王寺高校3年の時に高校生から3名だけユース代表に抜擢されてクウェートで開かれたAFCユース選手権に出場。1浪の末、早稲田大学政治経済学部に合格(法、政経、商の受験で政経のみ成功)、当初は同大学の同好会である稲穂キッカーズに入部し、本格的な競技サッカーから離れた学生生活を送っていたが、早慶戦の1週間前にサッカー協会の人物に説得され、早稲田大学ア式蹴球部に入部。以後DFとして活躍した。卒業後古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)に入社、日本代表としてロサンゼルス五輪予選、メキシコワールドカップ予選などに出場し、1990年に現役を退く。

その後サッカー指導者を目指しドイツへ留学、古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めたのち、サッカー日本代表コーチとなった。一大転機は1997年秋、フランスW杯最終予選で日本代表が大苦戦となり、アジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭される。その時点でのチームを把握していることが重視された結果、コーチだった岡田が監督代理として任命された。当初は正式な後任が決まるまでの一時的な代理監督とされた。しかしその後、加茂によって代表から外されていた中山雅史・北澤豪をチームに再召集するなどテコ入れも奏し、土壇場から初めての本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)事が評価され、本選に向けての正式に監督に任命された。1998年の本戦直前に三浦知良・北澤豪をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼んだ。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、エースFWに指名した城彰二が期待外れに終わり、3戦全敗・得点もわずか1ゴールでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。

その後半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユベントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。また後に横浜FMにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。

1999年には、J2に降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。前・日本代表監督ということもあり注目度・期待度が高かったが、就任1年目は5位に終わった。しかし2年目の2000年には圧倒的な強さでJ2で優勝、J1昇格を果たし自身初体験となるJ1クラブの監督となる。就任3年目となった2001年シーズン終了時、札幌をJ1に残留させた事を区切りに監督を辞め、解説者の視点からサッカーを見つめなおすこととなる。

2003年に横浜F・マリノスの監督に就任。念願であったJリーグで常勝チームとなりえる規模の大きさをもったクラブの監督となった。充実した戦力で1年目の1stステージから優勝。以後、3ステージ連続優勝、2年連続年間優勝のタイトルを獲得する。

2005年は前2年のような好成績が残せず9位に終わったため、その責任を取り監督を辞任すると報じられたが、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表されて再浮上を賭けた2006年、開幕から4連勝したもののその後は急激に調子を落とし、誕生日前日の8月24日に3年半の横浜での指揮にピリオドを打ち辞任。表面上は成績不振によるものとされているが、真の理由は強化方針を巡るフロントとの確執にあると言われている。現在は日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっているが、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になっているため、サッカー協会から後継監督として打診を受けている。


* 1998年フランスW杯直前最終合宿での「メンバーから外れるのはカズ、三浦知良」発言はいまだに論議にのぼるところである。
* 堅実な戦術で数々のタイトルを勝ち取った反面、若手を好み、あまりベテランを重用しない采配から試合の盛り上がりに欠けるとも言われ、評価の分かれる監督である。
* タイトルを獲ったチームは比較的、もともと戦力の整っていたチームであり、横浜FM時代は世代交代を試み始めた時期から勝てなくなった。逆にジェフユナイテッド千葉を自前の選手だけで下位から上位チームに育て上げたイビチャ・オシムと比較すると、若手育成の手腕には疑問の声もある。

略歴

選手経歴

* 1972年-1974年 - 天王寺高校
* 1976年-1979年 - 早稲田大学
* 1980年-1990年 - 古河電工

指導経歴

* 1990年-1994年 - 古河電工/ジェフユナイテッド市原:コーチ
* 1995年-1998年7月 - 日本代表
o 1995年-1997年10月:コーチ
o 1997年10月-1998年7月:監督
* 1999年-2001年 - コンサドーレ札幌:監督
* 2003年-2006年8月 - 横浜F・マリノス:監督

現役時代

* 大阪府立天王寺高等学校時代にはユース日本代表に選ばれた。
* 高校卒業後一年の浪人ののち早稲田大学政治経済学部に入学。当初は同好会でサッカーを楽しむつもりでいたが、早慶戦の1週間前に西が丘競技場で行われた試合を観戦に訪れた際に「アジアユース選手権へ行かせたのは将来への投資だったのに」と嘆かれ説得され、翌日サッカー協会に呼ばれて長沼健や平木隆三など幹部からサッカーを続けていないことを直接詰問された彼はその場で早稲田大学ア式蹴球部に電話をかけ、入部することになった。
* この時期、学生結婚している。
* マスコミへの就職を志望していたがかなわず、1980年、大学卒業と同時に古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入る。頭脳派のディフェンダーとして活躍し、1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献した。
* 日本代表としても国際Aマッチ21試合に出場した。
* 1982年、インド・ニューデリーでのアジア大会に日本代表として出場。
o 当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により 岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。日本は1次リーグでイラン、韓国と同居する厳しいグループに入ったが、緒戦・イランでほとんど攻め手がなかったにも関わらず、試合終盤の木村和司のゴールで1-0の勝利。イラン戦、岡田の試合出場は無し。最終戦の韓国戦を迎えた段階で、日本2勝(首位)、韓国1勝1敗。ただし得失点差により、日本は自力で1次リーグ突破の2位以内を確保する為には引分以上が必要。この韓国戦で、日本はFW尾崎加寿夫に代え、守備的中盤選手として岡田を大会初起用、守備の枚数を1枚増やした布陣でゲームに臨んだ。前半、日本は1失点するも我慢強く守備を続け、後半13分に岡田の入れたクロスを原博実がゴール、1-1の同点とし、1次リーグ突破に大きく近づく。後半30分をまわり、勝つ以外に1次リーグ突破が無い韓国に攻め込まれるも、日本は我慢強く守った。そして一瞬のカウンターから左サイドのゴールライン際で風間八宏がボールキープ、GKまでつり出してからマイナスにグラウンダーのボールを折り返し、攻め上がった岡田が左足ダイレクトでゴールを決めた。試合はその後、引分でよいゲームをリードした日本が、あせる韓国をいなし、2-1で勝利、首位での1次リーグ突破を決めた。岡田は守備を期待されての起用ながら、2ゴールに絡む活躍で日本の1次リーグ突破に大きく貢献した。その後日本は、準々決勝でイラクと対戦。岡田は韓国戦に続けてスタメン出場した。延長までもつれ込んだ試合は、結局0-1、日本の敗戦となった。ただし、この試合の後半25分、金田喜稔のクロスを原博実がヘディングでゴールに入れたシーン、VTRで何回見てもオフサイドとは見えなかったが、このプレーで日本はオフサイドを取られ、その後の試合展開に大きな影響を与えた。
* 1990年に古河電工がバイエルン・ミュンヘンと行った試合でチームは1-2で敗れたものの善戦した。この試合でも活躍した当時34歳だった彼は向上心が強くまだまだ現役を続けるつもりでいたのだが、この試合で海外との埋められない差を身をもって感じ、引退を決意。日本人がこのような海外のチームを相手にどうしたら勝てるようになるのか、と指導者への道を模索するきっかけとなる。

指導者時代

* 1990年に現役を退くと古河電工のコーチに就任。
* 1992年にはドイツへコーチ留学している。
* 1993年ジェフ市原(現・千葉)のコーチに就任。清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。この年に行われたアメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク戦の、NHK BS1でのスタジオ解説を田嶋幸三とともに務める。(ちなみに地上波(テレビ東京系列)のスタジオ解説は、釜本邦茂、柱谷幸一、森孝慈。)
* 1994年、加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。
* 1997年10月、FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選のさなか、加茂が成績不振を理由に解任されると、代理監督1試合ののち監督に昇格。イランとの第3代表決定戦の末予選を突破し、翌1998年の本大会まで日本代表チーム監督を務めた。
* 1999年、J2コンサドーレ札幌の監督に就任。クラブチーム初指揮となる初年度は5位に終わったが、自身の発想の転換以外にもチームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行った。翌2000年にはこれが結実し、他を圧倒する成績でJ2優勝。2001年J1で年間11位の成績を残し札幌を離れる。札幌を指揮した期間にエメルソンや播戸竜二、山瀬功治、今野泰幸など若く有能な選手を発掘・起用した。
* 2002年、サッカー解説者として活動。FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、トルシエの後の次期日本代表監督候補にも噂された。
* 2003年、横浜F・マリノス監督に就任。ファースト・セカンド両ステージを制し、1年目にして「完全優勝」。年間王者に輝く。
* 2004年、ファーストステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。浦和レッドダイヤモンズと争ったサントリーチャンピオンシップでは1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。
* 2005年、優勝候補の一つに挙げられていたが、アジアチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。結局、9位という期待はずれの成績で終了した。
* 2006年もチームの調子は上がらず、18節終了時点で自力優勝が消滅。19節の大宮戦終了後に辞意を表明し、翌8月24日に辞任した。
* 2007年11月、日本代表チーム監督のイビチャ・オシムが脳梗塞で倒れる。オシム監督の後任として、日本サッカー協会から監督就任の打診を受ける。早ければ12月上旬にも9年半ぶりの日本代表監督復帰が決まる運びとなった。

エピソード

* プロ野球阪神タイガースの大ファンであるが、小学生の頃は南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)子供の会に入っており、そこで少年野球をしていた。岡田彰布阪神監督とは直接面識はないものの、同姓、同じ早稲田大学の同級生(1浪しているため)、優勝経験監督と共通点がある。
* メガネがトレードマークであるが、現役時代にもメガネをかけてプレイしていたことがある。
* 現役時代、なかなか時間を守れずに練習の時間を間違えることは多かったという。ひどい時には試合の時間を間違えることもあり、古河電工のキャプテンだったにもかかわらず、チームがJSLリーグの連勝記録をかけて挑んだ最下位の住友金属(現鹿島アントラーズ)戦では夫人と出かけていて試合開始に間に合わず、遅れて途中から出場するものの敗れてしまった。
* 1997年サッカー日本代表フランスW杯予選、カザフスタン戦に引き分けた結果、加茂周が更迭される。それを受け、急遽監督に抜擢された岡田はその心境を翌朝のインタビューで「ホテルがスイートルームになっただけ」、後日も「別に大したことは無かった」とひょうひょうと答えている。だが加茂更迭・岡田代理の決まった当夜に、岡田から日本代表アシスタントコーチ就任を依頼された小野剛がそれを二つ返事で快諾すると、岡田は逆に「そんなに簡単に受けて良いの?例え話じゃないんだ、もし失敗したら本当に日本にいられなくなるかも知れないんだぞ!」と叱りとばしたという。マスコミをかわしながら、強烈なプレッシャーと戦うことになった、その覚悟の一面を見て取れる。岡田はその後のジョホールバルの歓喜となった日の前夜にも、日本の家族に電話をかけて、負けたら日本に住めなくなるから海外に移住しようという会話を夫人としている。自身だけではなく家族にまでも巨大な圧力が国民から加えられた経験から、「代表監督は外国人に限る」という発言をことあるごとにしている。

代表歴

出場大会など

* アジア競技大会(1982)
* ロサンゼルスオリンピック予選
* ワールドカップメキシコ大会予選

試合数

* 国際Aマッチ 24試合 1得点(1980-1985)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0
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岡田武史(1956-)
岡田武史語録
これが岡田武史の「いまどきの若手」指導法だ







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posted by zara at 18:02| Comment(0) | TrackBack(1) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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