名古屋の来季監督に94年から8シーズン、名古屋でプレーしたドラガン・ストイコビッチ氏(42)が就任することが12日、決定的となった。セルビアの名門レッドスターの会長を務める同氏は現在、金銭面など条件面を交渉中で、近日中に正式に契約する。
リーグ優勝のない名古屋が悲願達成のために白羽の矢を立てたのは、やはりピクシーだった。関係者によれば、ストイコビッチ氏はレッドスター退団の意思を既に周囲に伝えたという。年俸、契約期間など交渉は詰めの段階に入っており、“妖精”が再び赤いユニホームに袖を通すのは確実な状況だ。
昨季から指揮を執るフェルフォーセン監督は今季で退団するが、名古屋はこの2年でMF本田、FW杉本らの若手が日本代表に招集されるまでに成長。強豪へと進化する基盤は整っている。現役時代は日本代表のオシム監督が指揮したユーゴスラビア代表のエースとして90年W杯イタリア大会のベスト8に貢献。また、名古屋にも天皇杯のタイトルをもたらすなど創造性豊かなプレーで観客を魅了した。「ピクシー」が今度は監督として古巣を初のリーグ制覇へと導くべく、手腕を発揮する。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20071013-00000020-spn-spo

ふむふむ、ピクシーはレッドスターの会長を辞めるって話だから、その後名古屋の監督に就任するのか、と納得していたんですが、夜になって朝日にこんな記事が。。。
J1名古屋、ストイコビッチ氏復帰を否定
サッカーのレッドスター(セルビア)の会長を辞任したドラガン・ストイコビッチ氏(42)がJ1名古屋に復帰すると一部で報じられた件について、名古屋は13日、「ストイコビッチ氏とは接触もしていない」と否定した。
ストイコビッチ氏は94年から名古屋に8季所属し、02年からはアドバイザーになったが、5年を区切りに昨秋は契約を更新しなかった。名古屋の幹部は「契約を解除して以降、連絡を取っていない。正直言って困惑している」と話している。
http://www.asahi.com/sports/update/1013/NGY200710130020.html
上の監督就任のニュース、各スポーツ紙が載せてますが、すべて出所は共同通信らしい。。。誤報?
ドラガン・ストイコビッチ
(Dragan Stojković、1965年3月3日-)は、旧ユーゴスラビア(セルビア共和国)ニシュ出身のサッカー選手。ニックネームは「Pixy(ピクシー)」。現役時代はユーゴスラビア代表として活躍。ユーゴスラビアサッカー史上最大の英雄のひとり。
Jリーグの名古屋グランパスエイトに約7年間在籍し、外国人のJリーガーとして長く活躍した。そのため、日本人にとってもなじみが深い選手のひとりでもある。
現役引退後はセルビア・モンテネグロサッカー協会会長を経て、レッドスター・ベオグラード会長を務める(2007年10月12日辞任)。その他にも名古屋グランパスエイトのアドバイザーや、日本外務省の委嘱で西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を務めている。
プレースタイル
ゲームメーカー(攻撃的ミッドフィールダー)やフォワードをその役割とし、スピードを生かした華麗なドリブル・ボールコントロール・パスセンス・フリーキック・体の使い方などヘディングを除くサッカーに必要なほとんどの要素で芸術的かつ高レベルのプレーを見せる。ユーゴスラビア代表においては周囲からの絶大な信頼を受けたカリスマである。
代表では当初、もう一つのエースナンバーである7番を着けていたが、1980年代後半途中(90年W杯欧州予選のアウェーフランス戦で代表10番デビュー)から2001年に引退するまで、サッカーにおけるエースナンバーである背番号10を背負いキャプテン(初キャプテンは89年の親善試合のギリシャ戦)を務めた。
周囲からの信頼を物語るものとして、1990年代に隆盛を極めたイタリアのACミランで、かのR・バッジョにすら背番号10を譲らなかったジェニオ(天才)サビチェビッチもユーゴスラビア代表では友人ストイコビッチに対し、栄えある背番号10を譲っていたというエピソードもある。
クラブのレッドスターでは1988-89〜1989-90シーズンに同じく旧ユーゴを代表するトップテクニシャンのサビチェビッチ、プロシネツキと共にプレーし、それぞれの個性を損なうことなく見事に共存。旧ユーゴリーグでは圧倒的な強さと美しいパフォーマンスを見せた(レッドスターでも10番とキャプテンマークを着けたシンボリックな存在だった)。ちなみにこの3者は時期は異なるが、後にそれぞれが所属した当時西側の代表的なビッグクラブでも 10番を着けたことでも有名である(ストイコビッチはオリンピック・マルセイユで。プロシネツキはレアル・マドリードで。そしてサビチェビッチはACミランで)。
国名が新ユーゴに変わってからも、当時レアル・マドリードのエースで新ユーゴ代表のエースストライカーでもあったミヤトビッチは、名古屋グランパスの10番ストイコビッチに代表でのエースナンバーを譲っている。
ストイコビッチ自身も10番に強いこだわりを持っており、1996年のJリーグオールスターサッカーでは、この試合を最後にパリ・サンジェルマンへの移籍が決まっていたレオナルド(当時鹿島アントラーズで10番を主につけていた)に10番を譲らなかった(この試合でレオナルドは9番をつけた)。
ちなみに来日当初のストイコビッチはなかなか10番をつけることができなかった。これは当時のJリーグが背番号固定制を導入しておらず、1番から11番がスタメン、12番から16番が控えの番号(ただし1番と16番はゴールキーパー)と決まっていたためで、途中出場の多かったストイコビッチは14番、またスタメンで出場してもゲーリー・リネカーが出場する時はリネカーに10番を明け渡し、8番で出場していた。なおストイコビッチ自身は「私が名古屋に来たのはリネカーがいると言うこともあってだったし、彼なら譲ってもいいかと思っていた」そうである。
キャリアの「明」と「暗」
彼の現役生活は明暗の起伏に富んでいる。若くして自身の憧れでもあった国内の名門クラブレッドスター・ベオグラードやユーゴスラビア代表で活躍。特に、ユーゴスラビア代表では同国内で名将の呼び声のあったイビチャ・オシムのもとで、その能力を発揮していった。1990年イタリアW杯では、「1986年メキシコW杯は“マラドーナの大会”と言われたように、W杯'90は彼の大会になる」との前評判が立つほど大いに期待され、実際にもスペイン戦での美しい2得点や、負けはしたもののアルゼンチンとの準々決勝であのマラドーナをも上回るプレイを見せるなど国際的なプレイヤーとしてその評価を間違いのないものとする。敗北に突っ伏して泣くストイコビッチにマラドーナは「泣くんじゃない。君はこれからの選手なんだ」と声を掛けたという(ちなみにマラドーナとストイコビッチが対戦したのはクラブチーム・代表チームでもこれが最初で最後だった)。
W杯後は、当時欧州最高レベルであったフランスのオリンピック・マルセイユに高額で移籍した。しかし以降は自身のケガや、オリンピック・マルセイユの八百長問題、ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビアの国際大会への参加禁止制裁などの不運により徐々に表舞台から遠ざかり、「終わった選手」と思われるようになった。欧州でのキャリアが困難を極めたその時、日本の名古屋グランパスエイトへ半年の期限付きで移籍した。先述の本人のコメントにもあるように元イングランド代表ゲーリー・リネカーが在籍していた事もきっかけの一つだったという。グランパスに移籍した当初、いくつかの試合で伝説的とも言える素晴らしいプレーを披露したが、初公式戦の広島戦では前半のうちにイエローカード2枚で退場など慣れない環境やチーム事情もあり彼らしいプレイを見せることはできなかった。
転機はアーセン・ベンゲルのグランパス監督就任だった。モナコ時代にストイコビッチの活躍を目にしていたベンゲルは、始めはなかなかうまくいかなかったものの、リーグ中断期間までかけてグランパスをストイコビッチを中心としたチームに作り替えることに成功した。ストイコビッチは水を得た魚のように活躍し、2度の天皇杯優勝などグランパスの躍進に貢献した(ベンゲルがアーセナルの監督に就任した際にはストイコビッチも一緒に連れて行こうとしたという逸話もある)。また、1998年フランスW杯では制裁措置が解かれたユーゴスラビア代表にも招集され、チームの中心としてベスト16進出の原動力となり世界に健在を示す。
当初は2000年末での現役引退を公言していたが、名古屋サポーターの強い慰留の声とストイコビッチ自身の「名古屋でリーグ優勝したい」という思いもあり、引退を半年延長。リーグ優勝は果たせなかったものの、2001年第1ステージを最後に惜しまれつつも引退した。
スポーツと政治
旧ユーゴスラビア連邦出身の選手には、民族紛争や連邦分裂等の複雑な事情に対して、スポーツ選手という立場を政治的主義の主張に利用する者もいたが、ストイコビッチは「スポーツと政治は無関係」という立場を貫き通した。1999年のNATO空爆に対しては、ユニフォームのアンダーシャツに書いた「NATO Stop Strikes」(NATOは空爆を中止せよ)のメッセージを見せるパフォーマンスを行うこともしたが、彼は「これは人道的な観点によるメッセージであり、政治的な意味は持たない」とした。
なお、彼をこの行動に駆り立てたのは、1992年にイタリアのヴェローナへレンタル移籍されている最中に、チームメイトから「悪魔のセルビア人」「ドラガン・ミロシェビッチ」呼ばわりされたことも一因だった。1990年から始まる一連のユーゴスラビア紛争では、独立の気概を持つ諸国が、セルビアに一方的に弾圧されているという決めつけの報道がなされており、ユーゴスラビア対岸のイタリアでさえそう受け止められていた。
ニックネーム
ニックネームの「ピクシー」(Pixy、Piksi)の由来は、その美しく華麗なプレーぶりからつけられたとする説もあるが、ストイコビッチ自身が説明しているように、実際は子供のころ大好きだったアニメ「ピクシー&ディクシー」に由来する。彼はサッカーの試合をさぼってまでこのアニメを見ていたことから当時の友達に付けられたという。
また、「ピクシー=妖精」と紹介されるが、ピクシーは一般的にイメージされる(例えばピーター・パンに出てくるティンカーベルのような)羽根のある女性の姿をした妖精ではない。イングランドの伝説によると、眼はやぶにらみで口が大きく色白で痩せた男性の小人で、旅人を道に迷わせたり、鉱夫を騙して喜ぶなどずる賢く悪戯好きの妖精である。相手チームのディフェンスを翻弄するパスや頭脳的なプレーなど、こちらの方がストイコビッチのイメージに近いのかもしれない。
人物・好物等
家族は妻と1男2女。
東方正教会の一派セルビア正教会を信仰(セルビア人の大半はセルビア正教徒である)。好物はイタリアン、日本で覚えた納豆で「自分の経験から、米は疲労回復に最適」というのが持論。2004年7月、セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住し、その後に母国で仕事をするようになってからも自宅はパリにある。
ちなみに少年時代のアイドルはミシェル・プラティニであった。ただ同時に一般論として、個人マークの厳しい現在のプレッシング・サッカーにおいて、単純にプレースタイルを比較することはできない、ともしている。またピクシーが実は現役時代からの喫煙者であることを余り知られてないが、これはプラティニがロッカーでタバコを吸う姿に格好よさを感じ吸い始めたからだという。
現日本代表監督イビツァ・オシムには絶対的な信頼を寄せており「オシムがベストだ。」と言って憚らず(ベンゲルとオシムが現役時代に会った最高の監督とも発言している)、「どんな困難な状況でもベストの選択をする。オシムをサポートすれば日本は必ず強くなる」と太鼓判を押している。また現実的には実現は困難だが、その師弟関係から日本代表のコーチとしてオシムの右腕になるのではないかとマスコミ等で話にあがる事もあった。
略歴
1965年
* 3月3日ニシュに生まれる。
1981年
* 地元のクラブ、ラドニツキ・ニシュに加入。サッカー選手としてのキャリアをスタート。
1983年
* ラドニツキ・ニシュとプロ契約。
* 11月12日 対フランス戦でユーゴスラビア代表デビュー。憧れのプラティニと対戦、ユニフォームを交換。
1984年
* ユーロ1984フランス大会。ストイコビッチ初の国際大会出場。
フランス戦ではPKにより得点し当時のユーロ最年少得点記録を更新した。 ユーロ2004年でルーニーに更新されるまで記録保持
* ロサンゼルスオリンピック。ユーゴスラビア代表の銅メダル獲得に貢献。
1985年
* 兵役でコソボ・プリシュティナに赴任。
1986年
* 国内の名門レッドスター・ベオグラードに移籍。移籍金は当時としては破格であった。
1987年
* ユーゴスラビア国内リーグのMVP獲得。
1988年
* レッドスター・ベオグラードで国内リーグ優勝。
* 2年連続で国内リーグMVP獲得。
* 一部リーグの全チームの主将と監督による選手投票でもMVP
* ソウルオリンピックにユーゴスラビア代表として出場。
* 後に名古屋の監督となるベンゲル率いるモナコと親善試合を行う。この試合後、ベンゲルはストイコビッチ獲得を申し込んだが、当時のユーゴは25歳未満は移籍禁止という旧共産圏の移籍条項が残っており、移籍話は流れる。
1989年
* レッドスター・ベオグラードより「星人」(Zvezdine Zvezde)の称号を与えられる。星人とはレッドスターに大きな貢献をした偉大な選手に贈られる称号でクラブの歴史10年に対して1人の選手にしか贈られない。ストイコビッチは1980年代の星人である。
* 3年連続で国内リーグMVPに輝く
* 2年連続で選手投票でもMVP
1990年
* 5月13日 国内リーグ、ディナモ・ザグレブ戦。当時のユーゴスラビアはスロベニア・クロアチアの独立運動できな臭く、セルビアとクロアチアを代表する両クラブの試合は代理戦争の様相となり、暴動が発生。ストイコビッチの友人かつライバルである、ザグレブのズボニミール・ボバンがザグレブサポーターを抑圧する警官(セルビア人であるという説と、そうではないムスリムだという説がある)にとび蹴りを食らわすなどがあり、大きな問題となった。
この2週間後、ザグレブで行われたW杯前の最後のテストマッチ・オランダ戦では、その雰囲気を引き継いでホームの試合でありながらアウェー状態と錯覚する程ひどい状態だった。そんな中、選手が奮闘しオランダ相手に最高のパフォーマンスを見せるも0-2で敗戦。試合後、観客に応えるオシム監督にまで罵声が浴びせられる。
* レッドスター・ベオグラードで国内リーグ優勝。
* W杯イタリア大会。華麗なプレイでチームのベスト8進出に貢献。対スペイン戦で見せた彼のキックフェイントは最早伝説となっている。これによって、彼は国際的な名プレイヤーとして名を知られるようになる。ちなみに、この時の代表チームを率いていたのは、後にジェフ千葉を指導し、現在日本代表監督を勤めるイビチャ・オシムである。
* 当時隆盛を極めたフランスのオリンピック・マルセイユに多額の移籍金で移籍。当時監督のベッケンバウアーが『ストイコビッチは世界でも最高の才能を持った選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう』と発言。しかし移籍初年度リーグ戦開幕直後の第2節・メツ戦でGKに足を掴まれ落下。左膝にその後の数年間彼を悩ませる怪我を負う(手術は計3回)。チームは同年リーグ優勝を飾る。また、UEFAチャンピオンズカップ決勝で古巣レッドスター・ベオグラードと対戦し、ストイコビッチは延長戦終了間際7分間出場、チームは敗戦し準優勝で終わる。
* このとき、レッドスターの選手は『ピクシーなら20%のコンディションでも我々をパニックに陥れることが出来た』『ストイコビッチが出てくるのが一番怖かった』と口にしたという。
1991年
* ユーゴスラビア内戦始まる。
1992年
* 3月25日 国際親善試合 対オランダ戦。旧ユーゴスラビア連邦共和国(スロベニア、クロアチアの独立前)として最後の試合。
* ユーゴスラビア内戦に対するFIFAの制裁措置(ユーゴスラビアの国際大会への出場停止)開始。ユーロ92の10日前であり、この大会のユーゴスラビアは優勝候補の筆頭とも言われていた。
* ユーロ1992スウェーデン大会。ユーゴスラビアの代わりに出場したデンマークが優勝。
* イタリア セリエAのエラス・ヴェローナへレンタル移籍。けがで出場試合は少なくヴェローナはこのシーズン終了後セリエBに降格。ストイコビッチはオリンピック・マルセイユへ戻ることとなる。
1993年
* オリンピック・マルセイユの八百長疑惑が発覚。
1994年
* オリンピック・マルセイユは八百長疑惑の制裁措置として2部に降格。
* 名古屋グランパスエイトに移籍。移籍当初はひざのケガの影響や外国人枠の問題で出場試合は限られたものだった。
* 8月10日 対サンフレッチェ広島戦でJリーグデビュー。イエローカード2枚で退場の結果に終わる。
* ユーゴスラビア内戦に対するFIFAの制裁措置解除。
* 名古屋グランパスエイトにアーセン・ベンゲル監督就任。
* 12月23日 国際親善試合 対ブラジル戦。FIFAの制裁措置解除後、初の国際Aマッチ。このブラジル戦を貴賓席で観戦したペレは「もう一度W杯で彼のプレーが見たい」と絶賛した。
その後ペレはイギリスのTV番組で世界最高の選手は誰か? との問いには「ロマーリオ、ロベルト・バッジョ、ストイコビッチだ」と答えている。
1995年
* グランパスは開幕当初、低迷する。しかしJリーグ中断期間中、フランス合宿においてアーセン・ベンゲル監督の組織戦術がチームに浸透、徐々にストイコビッチ中心の強豪へと変貌する。
* Jリーグの年間MVP獲得。ベストイレブンにも選出される。
1996年
* 1月1日、名古屋グランパスエイトで天皇杯優勝。
1997年
* 7月9日の横浜マリノス戦で、小幡真一郎主審の出したイエローカードを取り上げ、逆に主審に向かって突き付けた。その結果、審判への侮辱行為として4試合の出場停止処分となった。
1998年
* W杯フランス大会。FIFAの制裁措置解除後初の国際大会出場。
1999年
* 10月9日 ユーロ2000予選 クロアチア対ユーゴスラビア。袂を分かったかつての盟友クロアチアとの因縁の1戦。マクシミル・スタディオンでの死闘に引き分け、本大会出場権を勝ち取る。
2000年
* 1月1日、名古屋グランパスエイトで天皇杯優勝。個人タイトルとしてMVP獲得。
* ユーゴスラビア代表の一員としてユーロ2000に参加。ヴヤディン・ボスコフ監督は、欧州外のクラブでプレイするストイコビッチを冷遇する。
* EURO2000のグループリーグvsノルウェー戦で先発。キレのあるドリブル、ピンポイントのスルーパスを何度も通し勝利(1-0)に貢献、MVPに選ばれる。
2001年
* 7月4日 国際親善試合 日本対ユーゴスラビア で代表としてのキャリアを終える。
* 7月21日 Jリーグ 対東京ヴェルディ1969戦で最後の公式試合。現役を引退。
* 9月 豊田スタジアムの北10番ゲートがストイコビッチにちなんで「ピクシーゲート」と命名される。
* 9月 ユーゴスラビアサッカー協会会長に就任。
* 10月1日 豊田スタジアムにて引退記念試合。名古屋グランパスエイト対レッドスター・ベオグラード。
* 10月30日 ニシュのチャイル・スタジアムにて引退記念試合。ラドニツキ・ニシュ対ヴァルダル・スコピエ。
2004年
* 3月 日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱。
2005年
* 7月6日 レッドスター・ベオグラード会長に就任(セルビア・モンテネグロサッカー協会会長は9月の任期切れを待たず辞任した)。
2007年
* 10月12日 「人生とスポーツの両面で疲れ果て、壁にぶち当たった。何かを終わりにし、新しいことを始めるちょうどいい時だ」(時事通信より[1])との言葉を残して、レッドスター会長を辞任。同時にレッドスターのクラブ関係者が、ストイコビッチは12月から名古屋のスポーツディレクターに就任することが決まっていると発言したとの報道がされる。
[編集] 所属チーム
* 1979年-1984年 FKラドニツキ・ニシュ( ユーゴスラビア・1983年よりプロ契約)
* 1984年-1985年 兵役により所属クラブなし
* 1985年-1986年 FKラドニツキ・ニシュ( ユーゴスラビア)
* 1986年-1990年 FKレッドスター・ベオグラード( ユーゴスラビア)
* 1990年-1991年 オリンピック・マルセイユ( フランス)
* 1991年-1992年 エラス・ヴェローナ( イタリア)
* 1992年-1994年 オリンピック・マルセイユ( フランス)
* 1994年-2001年 名古屋グランパスエイト( 日本)
wikipedia

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