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2008年09月30日

解散は一体いつなのか?動画あり

「解散は補正予算成立後」見方強まる…首相は9日可決目指す

 麻生首相は米国発の金融不安が深刻化していることを受け、当面は緊急経済対策を盛り込んだ2008年度補正予算案の成立に全力を挙げる方針だ。

 10月6日の衆院予算委員会で審議入りし、9日中の参院での成立を目指す。民主党の小沢代表にも協力を呼びかける考えだ。同党にも早期採決を容認する意見が強まっていることから、与野党の間で衆院解散の時期は補正予算案の成立後になるとの見方が広がっている。

 首相は30日午前の閣僚懇談会で、「日本の実体経済に影響を及ぼさないよう対応をきちんとしなければならない」と強調した上で、「金融システムを崩壊させないことが一番中心で、密接な連携をしっかり取るように」と全閣僚に指示した。

 河村官房長官は同日午前の記者会見で、衆院解散の時期に関連し、「首相には景気対策を進めてゆくという強い考えがある。(解散時期は)当然、総合的に慎重に判断することになるだろう」と述べた。

 自民党の細田幹事長は同日午前の記者会見で、「(金融対策は)一刻も猶予がならない状態だ。解散・総選挙に入って、選挙運動ばかりしている状況が今すぐあっていいのか、と言われれば、麻生首相は『まあ、待て』と言うだろう。米国と連携して(事態収拾の)めどが見えるまで、対応しないといけない」と述べた。

 自民、公明両党の幹事長、国会対策委員長は同日午前、会談し、6日から衆参両院の予算委員会を開いて、補正予算案を速やかに成立させる方針で一致した。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/
20080930-OYT1T00461.htm?from=top



米株安、解散時期も直撃…衆院選の先送り論強まる

麻生首相、補正予算審議入りを指示

 29日の米国株価の大暴落が、解散・総選挙の時期にも影響を与えることになりそうだ。麻生太郎首相は30日午前、総合経済対策を盛り込んだ2008年度補正予算案の早期成立に向け、週明けから予算委員会審議に入るよう自民党の大島理森国対委員長に指示した。このため、与党内では「10月3日解散・11月2日投開票」の日程で行う方向だった次期衆院選は大幅に先送りされるとの見方も広がっている。

 首相は同日午前の閣僚懇談会で、米国発の金融不安の高まりを受けて「日本の実体経済に影響を及ぼさないよう対応をきちっとしなければならない。世界の金融システムを壊してはいけない。そのために連携をしっかり取るように」と述べ、国際社会と密接に連携し、金融危機の回避に万全を期すよう指示。その後、記者団の質問に答え、「日銀もドルの供給に応じ、世界中が一斉に対応している。(金融不安が)大きく波及しないよう、ものすごく注意深く対応しなければならない」と語った。

 これを受け、自民党の細田博之幹事長は記者会見で「解散して議会に誰もいない、選挙運動ばかりしている状態が今すぐにあっていいのかと言われれば、首相は『まあ待て』と言うだろう」と、解散先送りの可能性に言及。同時に「補正予算が通ればめどが見える感じがあったが、悪い方の目が出た。前向きに対応して混乱を早期に収拾しなければならない」と述べ、補正予算成立後に追加的措置を検討する考えを示した。

 これまで与党内では、矢野絢也元公明党委員長の国会招致を阻止したい公明党を中心に、10月3日の各党代表質問直後の解散を求める声が強かった。だが、大島氏は党国対正副委員長会合で「衆院解散がどうのこうのと言う前に、やるべきことはやっておくことが必要だ。首相の思いはぜひとも実現したい」と強調。

 さらに、大島氏は公明党の漆原良夫国対委員長に会い「日本経済への影響を考えると、補正予算案をしっかりやらなくてはならない」と首相の意向を伝達した。この結果、両党は補正予算案審議について衆参とも2日以内に採決する方針を確認、この線で野党側に確約を求めることになった。

 このため、早期解散を求めていた公明党幹部も30日、「想定していた11月2日は多少ずれ込むかもしれない」との考えを表明した。

 ただ、自民党ベテラン議員の1人は「公明は早期解散論を唱えていたが、党利党略で補正を潰しているという批判が出たので、一歩引いたのだろう。しかし、2日投開票を求める構えは捨てておらず、首相が追加経済対策などのために国会審議を行おうとすれば、それに抵抗する可能性が高い」とみる。

 今後、首相と公明党の綱引きが激化しそうだ。

http://www.zakzak.co.jp/top/200809/t2008093034_all.html


世界同時株安:早期解散先送り、河村官房長官も言及

 麻生太郎首相は30日午前、金融不安が拡大し世界同時株安となっていることを受け「大きく波及しないように、いろいろな対策で注意深く対応しなければならない」と述べ、金融安定化に努める姿勢を強調した。首相官邸で記者団に述べた。

 河村建夫官房長官は記者会見で衆院解散・総選挙の時期への影響について「そういうことも当然、考えないといけない。首相は景気対策を進めていくという強い考えがあり、加速させねばならないと考えているのではないか」と述べ、衆院解散・総選挙が先送りされる可能性に言及した。

http://mainichi.jp/select/seiji
/news/20080930dde001020035000c.html





確かに選挙に突入すべき政治状況ではないのはわかるんだが。。。う〜ん、じれったい。。。

米大統領選でオバマ氏が勝ったら、日本の総選挙にも影響がでる。で、11月4日以前にやってしまおうという話も、これで吹っ飛んだということなんだろうな。

まあ選挙まで時間があれば、舌禍内閣からまたまた失言が飛び出すかも知れないし、お金の問題も出てくる可能性もある。何しろこの内閣、組閣前に身体検査を一切行っていないのは有名な話。。。





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2008年09月29日

代表質問みたいな所信表明演説 動画あり

【麻生首相所信表明演説】「強く明るいに日本に」 民主党との対決姿勢強調

 麻生太郎首相は29日午後、衆院本会議で就任後初の所信表明演説を行い、「日本は強くあらねばならない。明るくなければならない」と訴えた。また、国会運営や平成20年度補正予算案への対応などについて民主党の姿勢をただしたほか、「緊急な上にも緊急の課題は日本経済の立て直し」と強調し、当面は財政再建や経済成長より景気対策を優先する考えを表明した。

 首相は演説に先立ち、中山成彬前国土交通相の辞任について「中山前大臣の一連の発言は閣僚として誠に不適切だ。関係者、国民に深くおわびを申し上げる」と陳謝した。

 演説で首相は、「喫緊の課題についてのみ主張を述べる。その上で民主党との議論に臨む」と強調。(1)国会での合意形成のルールを作る用意はあるか(2)20年度補正予算案に反対なら、財源を明示して独自の案を示せ(3)消費者庁創設のための話し合いに応じるか(4)日米同盟と国連のどちらを優先するか(5)海上自衛隊によるインド洋での補給支援活動から撤退してもいいのか−との5項目の質問を民主党に投げかけた。

 景気対策については、福田内閣がまとめた総合経済対策の実行への決意を示し、年度内の定額減税の実施を約束。米証券大手リーマンブラザーズの経営破綻(はたん)などによる米国の金融危機を受け「必要に応じ、さらなる対応も弾力的に行う」と述べ、第2次補正予算案の編成に含みを持たせた。

 財政再建に関しては、23年度までの基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化を「達成すべく努力する」としつつも、「目的と手段を混同してはならない」とも指摘。景気動向に応じて、黒字化の達成時期の延期も含めた柔軟な対応をとる考えをにじませた。

 年金記録問題への対応は「ひたすら手間と暇を惜しまず、確かめ続けていくしか方法はない」とする一方、不祥事を行った社会保険庁職員に厳正な処分を下す考えを表明。後期高齢者医療制度(長寿医療制度)については「1年後をめどに見直しを検討する」と述べるにとどめた。

 外交では「日米同盟の強化。これが常に第一だ」と強調し、近隣諸国との協調や北朝鮮による拉致、核・ミサイル問題の解決などの課題を提示。そのうえで「わが国が信奉するかけがえのない価値が若い民主主義諸国に根付くよう助力を惜しまない」と述べ、首相が外相時代に提唱した「自由と繁栄の弧」につながる価値観外交を重視する方針を示した。

 インド洋での補給支援活動にも言及し、「テロとの闘いは到底出口が見えない。国際社会の一員たる日本が活動から手を引く選択はあり得ない」と語り、活動継続への決意を強調した。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080929-00000540-san-pol










選挙管理短命内閣に中長期の方針なんて何もないわなぁ。政策なし、ビジョンなし。

まあこの世の中で、一番気になるのは小沢一郎って感じかぁ?










この演説を聴いてる、歴代4人の総理大臣の様子。。。


ahkfua

寝てる者2名、聞いちゃいらんねぇ者2名。自民党最大派閥清和会の重鎮4名でした。。。


首相所信表明、対決姿勢に野党一斉反発

 麻生首相は29日午後の衆参両院の本会議で、就任後初の所信表明演説を行い、民主党に対し、2008年度補正予算案やインド洋での自衛隊の給油活動の継続などへの賛否を明らかにするよう要求した。

 次期衆院選をにらみ、同党との対決姿勢を鮮明にしたものだ。これに対し、民主党など野党は一斉に反発した。

 首相は演説で、衆参で多数派が異なるねじれ状況の下での国会運営に関し、「政局を第一義としてきた」などと民主党を名指しで批判。対案や党としての見解を提示するよう求めた。また、緊急の課題に日本経済の立て直しを挙げ、08年度補正予算案に民主党が反対する場合は、論拠を含めて10月1日から国会で始まる代表質問で提示するよう求めた。

 民主党の鳩山幹事長は29日、国会内で記者団に対し、「国民をこれほどバカにした演説はない。あのような失礼なことを言われて、黙っていられるわけはない」と批判した。首相の「逆質問」については、「補正予算案の賛否は本来、予算委員会での審議を通じて答える話だ」と指摘した。民主党は、10月1日の衆院での代表質問に小沢代表と鳩山氏が立つ予定だが、小沢氏は首相の逆質問に基本的に回答せず、次期衆院選の政権公約(マニフェスト)を公表することを検討している。

 社民党の福島党首は「国民と少数野党が(首相の)眼中にない」と反発した。国民新党の亀井久興幹事長も「前代未聞だ。衆院選の選挙演説に聞こえた。もうちょっと冷静に考えてほしい」と記者団に述べた。

 一方、政府は29日、08年度補正予算案を国会に提出した。総合経済対策の裏付けとなるもので、追加の財政支出は1兆8080億円。首相は、早期成立に意欲を示しているが、衆院解散・総選挙に絡み、成立に至るかどうかは流動的だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080929-00000045-yom-pol



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posted by zara at 17:53| Comment(0) | TrackBack(8) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

元若ノ鵬が八百長を暴露 動画あり

元若ノ鵬が八百長関与を示唆

 大相撲の八百長疑惑を報じた週刊現代の記事で名誉を傷付けられたとして、日本相撲協会と横綱朝青龍関ら力士が発行元の講談社などに損害賠償などを求めた裁判で、大麻取締法違反容疑で逮捕され協会を解雇されたロシア出身の元幕内力士、若ノ鵬(20)=本名・ガグロエフ・ソスラン=が29日、東京都内で会見し、講談社側の証人として法廷で証言し、八百長を告発する考えを示した。

 元若ノ鵬は会見で「現在の相撲協会は汚い。幕内に上がったらアンフェアな取り組みを強いられお金を渡された。それを断るとかわいがりをするといわれた。親方も黙認していた」と述べ、自身も八百長にかかわっていたことを示唆。そのうえで週刊現代側の証人として法廷で詳しい証言をするとした。

 また大麻の使用についても「他に使用してる親方や力士がいるのに処分されていない。その他の協会の悪事についても証言していく」と付け加えた。

 裁判は東京地裁で係争中。10月3日の次回弁論で元若ノ鵬の証人申請をする。またこの日は朝青龍関が出廷し、本人尋問が行われる。

 元若ノ鵬は、解雇処分が厳しすぎるとして、処分の無効を訴え、地位確認を求める訴訟を東京地裁に起こしている。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080929-00000520-san-soci



元若ノ鵬:八百長報道訴訟に出廷へ「相撲界を良くしたい」

 8月に大麻取締法違反(所持)容疑で逮捕されたロシア出身の大相撲の元幕内力士、若ノ鵬(20)=本名ガグロエフ・ソスラン=が29日、東京都内で会見。「週刊現代」による大相撲の八百長報道をめぐり、日本相撲協会と力士らが発行元の講談社などに損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟で、講談社側の証人として出廷する考えを明らかにした。

 会見は講談社が開いた。まげに着物姿で現れた若ノ鵬は「幕内に入るとアンフェアな取組を強いられ、お金を渡された。断ると『かわいがり』をすると言われた」と述べ、ロシア語の通訳を介してコメントを読み上げた。

 出廷する理由は「相撲界を良くしたいから」と説明。だれから八百長を強いられたのかや、詳しい金品のやりとりなどについては「法廷で証言する」と述べるのみだった。講談社は来月3日の口頭弁論で若ノ鵬の証人申請を行う。


http://mainichi.jp/enta/sports
/news/20080929k0000e040050000c.html






そう言えば、同じく大麻問題で解雇された露鵬、白露山の兄弟も、妙に強気だった。。。もしかしたら、あの二人も八百長に関与とか?





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posted by zara at 17:38| Comment(0) | TrackBack(11) | スポーツ全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月28日

国民の関心引きたかったby中山成彬 動画あり

中山国交相辞任「国民の関心引きたかった」

 中山国交相は28日午前、「日教組の子供は成績が悪くても先生になる」などの一連の不適切発言の責任を取って辞任した。

 中山国交相は会見で「麻生首相は黙ってずっと聞いていた。最後に一言『誠に残念と』言っていた。確信的にあえて申し上げた。なぜ、これほどゆがんだ教育が行われているのか、国民の関心を引きたかった」と述べた。中山国交相の辞任を受けて、国交相は河村官房長官が当面兼務し、週明けには後任を決めたいとしている。麻生首相は、早くこの問題の幕引きを計る考えだが、政権へのダメージは避けられない。

 中川財務・金融相「早々にして、内閣が混乱しているなと。この大事な時期に、との印象を与えた」

 舛添厚労相「(Q辞任が内閣に与える影響は)プラスにはならないでしょう」

 民主党・小沢代表「(閣僚を任命した)麻生首相の責任も大きい」

 麻生首相に近い議員は「解散・総選挙へのシナリオは変えない」としているが、内閣支持率が期待より低かったこともあって、解散を思い切って先送りすべきだとの声も出ている。麻生首相は早くも難しい判断を迫られることになった。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn/20080928
/20080928-00000033-nnn-pol.html






中山国交相が引責辞任、内閣発足わずか5日目

 中山成彬国土交通相(65)(衆院宮崎1区)は28日午前、首相官邸で麻生首相と会い、成田空港拡張への反対を「ごね得」などと発言した問題の責任を取って辞表を提出し、受理された。

 内閣発足から5日目の辞任で、竹下改造内閣の長谷川峻法相の4日に次ぎ、現行憲法下では2番目に早い辞任となった。

 野党側は首相の任命責任を追及する構えで、発足したばかりの麻生政権にとって、大きな打撃となった。今後、衆院解散・総選挙をにらんだ与野党の攻防は激しさを増しそうだ。

 中山氏は首相に、「せっかく重要なポストに就かせてもらったのに、職責を全うすることができなくなり申し訳ない」と辞任を申し出た。首相は「誠に残念だ」と述べ、辞任を了承した。

 中山氏はこの後、国交省で記者会見し、「(2008年度)補正予算案をスムーズに審議するためにも、自ら身を引くことを決意した」と述べた。

 中山氏は25日の報道各社とのインタビューで、成田空港拡張への反対を「ごね得」と表現したほか、「日本は随分内向きな単一民族といいますか」「日教組(日本教職員組合)の強いところは学力が低い」などと発言した。27日の地元・宮崎市での会合で発言の真意を説明し、「ごね得」「日本は単一民族」との表現については陳謝したが、日教組については、「日教組を解体しないといけない」などと改めて批判していた。

 首相としては、中山氏の一連の発言を巡る問題が国会運営混乱の要因となり、次期衆院選にも影響を与えかねないと判断、与党内からも批判の声が強まったことなどを受け、辞任を認め、事態の早期収拾を図ることにした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/
20080928-OYT1T00290.htm?from=main1



いったい何のために国交相を引き受けたんだろう、この馬鹿親父は?何で文科相にしてくれって言わなかったのかね?元々文教族でしょ、この人。

「国民の関心引きたかった」って駄々っ子じゃねぇんだら。。。



<中山国交相辞任>後任に金子元行革担当相 29日に認証式

 麻生太郎首相は28日、一連の問題発言で国土交通相を引責辞任した中山成彬氏(65)の後任に、金子一義元行革担当相(65)を充てることを決めた。29日の認証式を経て就任する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080928-00000013-mai-pol



追記。。。このオヤジ、こんなことも言ってたのね。まさに言いたい放題。


今度は大阪引き合いに=職員組合を批判−中山氏

 「民主党が政権を取れば、日教組、自治労の支援を受けているので、日本が大阪府みたいになる」−。国土交通相を辞任した中山成彬氏は28日の記者会見で、大阪府を引き合いに日教組など職員組合を批判した。教員採用をめぐる大分県の汚職事件に関して「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分の学力は低い」とした発言については、「名指しで言ったのは申し訳ない」と陳謝したが、今度は大阪府に矛先を変えて職員組合を攻撃した形だ。
 この中で中山氏は「大阪府は長年、職員組合と癒着関係にあり、職員の給料が高い。ヤミ手当や裏金もあり、財政破綻(はたん)にひんしている」と述べた。その上で「橋下徹知事は職員組合の支援を受けず、広く府民の支持を受けているから、命懸けの改革ができる」とした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008092800125

こいつ、リアルネットウヨか?


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posted by zara at 18:07| Comment(0) | TrackBack(7) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポール・ニューマン死去 動画あり

<訃報>ポール・ニューマンさん死去「明日に向って撃て!」

AP通信によると、映画「明日に向って撃て!」や「スティング」などで知られる米映画界を代表する俳優の一人、ポール・ニューマンさんが26日、がんのため死去した。83歳だった。

 オハイオ州でスポーツ用品店を営む裕福な家庭に生まれ、母親の勧めで児童演劇団に入団した。第二次世界大戦中には海軍に入隊し、除隊後、大学を経て俳優養成所で演技を学んだ。1953年にブロードウェーの舞台でデビューし、55年の「銀の盃(さかずき)」で映画デビュー。一時テレビに活動の場を移すが、実在のボクサーを演じた56年の「傷だらけの栄光」の迫真の演技で注目された。男らしくセクシーな正統派の二枚目であると同時に、反抗心を秘めた危険な香りも漂わせ、複雑な感情を巧みに表現する演技派としても重用された。

 「ハスラー」(61年)、「明日に向って撃て!」(69年)、「スティング」(73年)、「タワーリング・インフェルノ」(74年)など次々と話題作に出演しスターの地位を固めた。68年には「レーチェル・レーチェル」を監督し、アカデミー賞候補になった。「スクープ・悪意の不在」(81年)、「評決」(82年)など社会派作品でも重厚な演技を見せた。何度もアカデミー賞候補になりながら受賞には縁がなかったが、86年「ハスラー2」で主演男優賞を受賞した。

 一方で、ベトナム戦争反対や反核運動に参加するなど、社会的活動にも積極的に取り組んだ。自動車のレーサーとしても活躍し、79年のル・マン24時間耐久レースで2位に入賞。82年には食品販売会社を設立し、ドレッシングなどを発売して成功を収めた。私生活では2度目の結婚で、女優のジョアン・ウッドワードさんとおしどり夫婦として知られた。長男のスコットさんも俳優だったが、78年、麻薬中毒で死去したことから麻薬反対活動に資金を提供。事業の利益を寄付するなど、慈善活動にも熱心だった。日本の障害児のためにと毎日新聞社会事業団を通じ、93、94、97年に寄付したことがある。

 最近では脇役で渋い存在感を見せ、05年にテレビドラマ「追憶の街エンパイア・フォールズ」でエミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。晩年まで活躍したが、07年5月、「満足できるレベルの役者でいられなくなった」と俳優引退を表明した。今年6月、がんで闘病中と報じられていた。

 ★ニューマンさんの主な出演作

55年 銀の盃(デビュー作)

56年 傷だらけの栄光

58年 左ききの拳銃

61年 ハスラー

62年 ハッド

69年 明日に向って撃て!

73年 スティング

74年 タワーリング・インフェルノ

82年 評決

86年 ハスラー2

(アカデミー主演男優賞)

94年 ノーバディーズ・フール 

 ◇精神が自由で柔軟

 映画評論家、佐藤忠男さんの話 直情径行型の青年役から出発したが、上手に年輪を重ね、食えない中年男を演じられる柄の大きさを身につけた。精神が自由で柔軟だったのだろう。反戦・反核など社会活動にも熱心だったといい、その幅の広さ、底の深さは、いかにもアメリカ的だったと言える。得難い俳優を失った。

 ◇陰ある演技見せた

 評論家、川本三郎さんの話 ゲーリー・クーパーやクラーク・ゲーブルら戦前からの男優が強く明るい英雄を演じたのに対して、戦後に現れたニューマンさんらの世代は「負け犬」的なヒーロー像を体現した。中でも「ハッド」で見せた彼の陰影ある演技は忘れがたい。彼の存在が60年代後半のニューシネマの方向を示した。理想的な俳優人生を送ったと思う。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080927-00000112-mai-soci














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posted by zara at 17:21| Comment(0) | TrackBack(1) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月27日

日教組は日本の癌by中山成彬 動画あり

「大臣にしがみつかない」=日教組は「日本のガン」−中山国交相

 中山成彬国土交通相は27日午後、一連の問題発言をめぐり、自らの辞任を求める声が与党内でも出ていることについて「国会審議に影響があれば、(ポストに)きゅうきゅうとしているわけではないが、教育改革、地方の高速道路(の整備)とかをやりたいなという思いがある。しがみつくつもりはないが、(今後の)推移を見守りたい」との考えを示した。宮崎市内で記者団に語った。
 発言に対する野党や世論の反応については「わたしの失言というか、舌足らずというか、言葉狩りに合わないように気を付けんといかん」と述べた。その上で、「日教組が強いところは学力が低い」との発言について「撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」と強調した。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080927-00000063-jij-pol



中山国交相「日教組は解体すべき」

 「日教組が強いところは学力が低い」など、一連の発言で物議を醸した中山国土交通大臣ですが、27日も地元での講演で、「日教組は教育のがんで解体すべき」と発言。新たな波紋が広がりそうです。

 「日教組は今の状態ではいかん。何とか日教組を解体しなきゃいかんと思っているところでございます」(中山成彬 国交相)

 27日の発言は、自民党宮崎県連の会合で飛び出しました。

 「日教組は解体する。小泉さん流に言えば、日教組をぶっ壊せ」(中山成彬 国交相)

 中山大臣は25日、成田空港建設への反対闘争は「ごね得」。「日本はずいぶん内向きな単一民族」などと発言。さらに「日教組の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」と話し、それぞれの関係者から抗議を受けていました。

 中山大臣は「ご迷惑をおかけしたことを申し訳なく思っております」と、26日は謝罪したのですが、一夜明けると元通り。「今の日本の教育をダメにしたのは日教組が原因だ」と自論を展開したのです。

 会合後、記者に囲まれても中山大臣は・・・。

 「日本の教育のがんが日教組だと思っていますから、日教組をぶっ壊すために私は火の玉になるんだと。私の失言というのか、舌足らずというか、言葉とは大事ですから、言葉狩りにあわないように十分気をつけていかないと」(中山成彬 国交相)

 日教組や野党からのさらなる批判は必至と見られる今回の発言。中山大臣は進退について、「絶対辞めないと言って、しがみついているつもりはない。推移を見守りたい」と話しています。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3957817.html




中山成彬と日教組、全面戦争へ突入!ってアンタ国土交通大臣だろうが。塩谷文科相と交代するか?大体全面戦争を勝利するだけの任期もないよ、きっと。。。

この確信犯的発言、ある意味選挙対策とも取れる。



追記です。。。

言いたい事だけ言って早々に辞任。投げ出しは自民党のお家芸かよ。日教組への宣戦布告はどうした。日教組が癌なら、自民党は寄生虫か。安倍、福田、太田そして中山。。。あー腹立つ。おまいら国民を舐めとんのか!?



中山国交相が辞任の意向

 成田空港反対派住民を「ゴネ得」と批判するなど、一連の発言が野党などの反発を招いていた中山成彬国土交通相は27日夜、辞任の意向を固めた。

 中山国交相は同日、宮崎市内で開かれた自民党県連の会合で、「日教組(日本教職員組合)を何とか解体しなきゃいかんと思っている」と改めて日教組批判を展開。この発言に関し終了後、記者団に「(日教組に関する発言は)撤回していない。日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が頭になる決意を示した」と述べた。

 進退問題に関し中山氏は同日夜、東京に戻った際に羽田空港で「自分の出処進退は自分で決める。今晩、女房(中山恭子首相補佐官)と2人でゆっくり相談する」と記者団に述べていた。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080927-00000557-san-pol




ここまでされても、「民主党に政権が移れば日本は潰れます」とか言う人がいるのが信じられん。「自民党に政権を委ねていたら日本は潰れます」としか思えんが。






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仁徳天皇陵 世界遺産候補に 動画あり

仁徳天皇陵 国の「史跡」以外で初の世界遺産候補に

 百舌鳥・古市古墳群には、世界最大級の墳墓「仁徳天皇陵」(堺市堺区)を含め宮内庁管理の墳墓が多く、文化財保護法の適用になっていない。

 堺市によると、仁徳天皇陵など市内に43基ある「百舌鳥古墳群」のうち同法による国の史跡は7基。これまで史跡でない文化財が選ばれた例はないという。

 堺市歴史文化都市推進室の藤木博則室長は「文化財保護法の適用がなくても、暫定リスト入りが可能になったと理解しており、これは画期的なことだ。陵墓が宮内庁法と皇室典範に基づき、しっかり守られているのが大きい」と受け止める。

 ただし、正式決定までに、文化庁から「適切な保存管理をどのような形で『担保』するかの考えを整理する」「都市化が進んでいることから、緩衝地帯の範囲、規制について明確な方向性を示す」などの条件が示された。

 堺市では、これら条件について共同提案する大阪府、羽曳野、藤井寺市と協議したうえ、文化、宮内庁とも調整を図りながら、早期にクリアしたい考えだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080927-00000505-san-soci


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仁徳陵古墳(大仙(山)古墳)

大仙町にある日本最大の前方後円墳です。
北側の反正陵古墳(田出井山古墳)・南側の履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は、全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土しています。
昭和30年代と最近の調査で、造出しから須恵器の甕が出土しました。古墳が造られた年代を知る資料として、話題になっています。明治5年(1872)には前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。この時の出土品は再び埋め戻されたと言われていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。アメリカのボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)よりも、あとで築造されたことが、わかっています。全周2.8kmの周遊路として整備されています。


http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/
database/nintoku.html



ひょっとして宮内庁の治定が間違っているかもしれない大王陵

百舌鳥古墳群の盟主は、我が国最大の墳丘規模を誇る前方後円墳の大仙古墳である(大山古墳とも書く)。『延喜式』はこの古墳を百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名している。そのため、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定して管理しているため、立ち入りは禁止いされている。

とにかくでかい。全長486m、後円部径240m、高さ35m、前方部幅305m、高さ35mを測る古墳は、どこから見ても三重の周濠に囲まれ、樹木が生い茂るにまかせた巨大な丘にしか見えない。墳丘は3段で築成され、左右のくびれ部に造出しが築かれている。

この古墳は、丘陵の先端を利用して築かれた墓ではない。何もない大地を掘削し、盛土して長い年月をかけて築き上げたものである。日本考古学の基礎を築いた梅原末治(1893 - 1983)は、かって築造に要した時間を試算したことがある。1000人の人間を動員できたとしても、4年の歳月が必要だったという。大林組プロジェクトチームが1985年に行なった別の試算では、古代の工法そのままで現在実施すれば、1日あたりピーク時に2000人を動員したとして、延べ6、807,000人、工期は15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。

築造時には墳丘全体が葺石で覆われ、2万個以上の円筒埴輪が墳丘上に三重・四重に巡らされていたと推定されている。まさに巨大な人工の丘であり人工の建造物である。その大きさを実感するには、とにかく周囲を歩いてみるがよい。1時間はかかるという。「近つ飛鳥博物館」のメインホールには、築造時の1/150の模型が置かれている。

『日本書紀』によれば、仁徳天皇は癸酉の年に即位したことになっており、治世67年目の冬10月5日に、河内の石津原(現在の堺市石津町から中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地をさだめたという。そして、その月の18日から工事が開始されたが、工事期間中に、野原から鹿が走り出てきて、工事人たちの前で倒れて死んだ。人々が怪しんで調べてみると、その耳から百舌鳥が飛び去った。それで、この地を百舌鳥耳原と名付けたという地名起源説も併せて記されている。

仁徳天皇は、それから20年後の治世87年目の1月16日に崩御し、その年の10月7妃に百舌鳥野に埋葬したという。その崩御年は西暦399年とされている。しかし、『古事記』は丁卯の年の8月15日に崩御したとし、年齢を83歳としている。干支年の丁卯は西暦427年であり、一般には、『古事記』の記述を採用し、5世紀前半死亡と見なしている。それゆえ、大仙古墳の築造年が5世紀前半と推定されてきたが、その推定を覆すような発見があった。

昭和50年(1975)、この古墳の西南隅の三重目の濠の外側と接した部分で、大阪府教育委員会が発掘作業中に円筒埴輪の破片がいくつか出土した。その埴輪片は、明らかに5世紀後半、場合によっては6世紀初め頃までずれ込む特徴を示していた。もし埴輪の編年が正しければ、円筒埴輪と仁徳天皇の没年とは半世紀から1世紀近いズレがあることになり、古墳の被葬者は仁徳天皇ではないことになる。

柏木政矩が描いた長持形石棺

別の証拠もある。明治5年(1872)9月、大仙古墳の前方部正面が台風で土砂が崩れ、竪穴式石室が露呈した。そのとき、柏木政矩(かしわぎまさのり)という画家が石室に入り、内部の様子をスケッチ風に作図した。その図面が、大阪城天守閣にある大阪市立博物館に保存されている。

柏木政矩が描いた長持形石棺は、蓋の前後左右に各々2個ずつ縄掛け突起が造り出されているが、この突起がほかの古墳のものに比べてかなり大きい。さらに、蓋が厚く断面が家形石棺に似ていて、長持形石棺のもっとも新しい段階、すなわち6世紀初めころの特徴があるという。

石室内に残されていた短甲は、鉄に金メッキした銅板を張り付けたものらしく、柏木は総体銅鍍金と注釈をつけている。また2枚の金属板を止め合わせるのに革ヒモではなく鋲(びょう)が用いられていて、古墳時代後期に近い特徴を備えているという。

だが、前方部の竪穴式石室に埋葬されていたのは、この古墳の主ではない。前方後円墳では被葬者は後円部の中心に葬られ、その他の場所は親族や関係者、あるいは副葬品だけをまとめて埋めることが多い。上空から確認したところによると、この古墳の後円部の墳頂には小さな土まんじゅうがあり、その周りを江戸時代に設けられた石柵が楕円形に取り囲んでいるという。

大仙古墳は陵墓として宮内庁の管轄下にあるため、学術調査すら一切禁止されている。そのため、古墳の主を埋葬する後円部中央の石室の様子などわかっていないはずだ。だが、古文献の調査で意外なことがすでに判明している。江戸前期までに石室は盗掘によってすでに掘り尽くされ、石棺の蓋もとっくに持ち去れているというのだ。貞享2年(1685)の時点で、すでに石室の天井石が露出していたので、堺奉行が修理し、その13年後の元禄11年(1698)には、江戸幕府が石室の周囲の竹垣を巡らし保護したことが記録れている。

宝暦7年(1757)に編纂された『全堺詳志(ぜんかいしょうし)』によって、石棺の大きさは長さ1丈5寸(3.18m)、幅5尺5寸(1.65m)、厚さおよそ8寸(0.24m)だったことが分かっている。だが中には何も残っていなかったそうだ。新井白石も、そうした事実を認識していて、「御陵はあばかれて、石棺の蓋の石、堺の政所の庭の踏み石となれりという」と記している。

在野の考古学者・中井正弘氏は、この古墳を暴いたのは豊臣秀吉であるとする面白い仮説を立てておられるそうだ。堺政所の庭石とされた石棺のふたは2.5トンの重量がある。これを運び出すには、三重の濠を埋めるなど大規模な土木工事が必要である。代表的な自由都市の堺を支配下においたとき、秀吉は陣頭に立っていくつかの古墳を破壊し、その土砂で濠を埋めた前科があり、秀吉ならやりそうなことだ、というのがその根拠だ。


海外に流出した大仙古墳からの出土遺物

アメリカのボストン博物館には、仁徳陵出土品として獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀の柄頭(つかがしら)の4点が所蔵されている。環鈴の形状や環頭太刀の柄頭の形状から類推して、これらの出土品は5世紀後葉から6世紀初めのものと考えられている。本当にこれらの品々が仁徳陵古墳からの出土品であれば、『日本書紀』や『古事記』が語る仁徳天皇の年代観と大きく異なり、仁徳天皇の陵墓に充当できなくなる。しかし、ボストン美術館に所蔵されるまでの経緯を調べたところでは、仁徳陵古墳から出土したことを直接裏付ける証拠はないらしい。

http://www.bell.jp/pancho/travel/furuiti-mozu%20
kofungun/daisen-kofun.htm





誰の墓なのかわからないのに、世界遺産なんかに認定されようか?




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2008年09月26日

舌禍内閣 もう失言

「成田はゴネ得」発言で国交相が謝罪 官房長官も批判 野党は罷免要求

 中山成彬国土交通相が成田空港建設反対派住民を「ゴネ得」と批判したことなどについて、河村建夫官房長官は26日午前の記者会見で、「(中山氏には)自己責任、結果責任がある。自ら撤回するのだからそれなりの発言だ」と述べ、発言は不適切だったとの認識を示した。中山氏は閣議後の記者会見で「国民のみなさまにご迷惑をかけ申し訳なく思う。誤解を招く発言なので撤回した」と述べた。

 これに先立ち、自民、公明両党の幹事長、政調会長、国対委員長が26日午前、都内のホテルで会談し、公明党の漆原良夫国対委員長が中山発言について「穏当を欠く、閣僚としてふさわしくない発言だ。麻生内閣が発足したばかりなので、注意してほしい」と不快感を示した。

 会談後、自民党の大島理森国対委員長が河村長官に電話で注意するよう求め、河村長官が同日午前の閣僚懇談会で、全閣僚に対し「記者会見などで、国民に誤解を与えることのないよう発言には十分注意してほしい」と述べた。中山発言については、米ニューヨークを訪問していた麻生太郎首相にも伝えられた。

 これに対し、野党各党は「撤回で済む話ではない。麻生太郎首相の任命責任は極めて大きい」(鳩山由紀夫民主党幹事長)などと一斉に反発、首相の任命責任を追及するとともに罷免を求める考えを示した。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080926-00000541-san-pol


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中山国土交通相、早くも舌禍爆弾…日教組が抗議へ


 発足当初から舌禍が懸念されていた麻生内閣だが、早くも“爆弾”が炸裂した。中山成彬国交相が25日、報道各社のインタビューで、成田空港反対派の住民を「ごね得」と批判したうえ、「日教組の強いところは学力が低い」などと放言し、関係者を激怒させたのだ。野党は麻生太郎首相に罷免を要求する構えだ。

 「国民の皆さんにご迷惑をかけて申し訳ない」。中山氏は26日午前の閣議後会見でこう謝罪した。大臣辞任は否定した。

 自分の立場をわきまえない舌禍だ。中山氏は死者も出た成田空港闘争について、「ごね得というか、戦後教育が悪かった。公共の精神というか公のために自分を犠牲にしてでもという(気持ち)がなく、自分さえ良ければ(いい)という風潮で、拡張ができなかったのは残念」と述べた。

 成田空港をめぐっては、2年後に2500メートル延伸の2本目の滑走路が供用される予定で、国が地元自治体や住民と交渉を進めている最中。今回の失言で、地元が反発するのは必至だ。

 中山氏は、日教組をめぐっても、大分県教委の汚職事件を引き合いに「日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力が低い」と発言。日教組は26日、「不適切極まりない発言だ」(関係者)として、中山氏に抗議する方向で調整している。

 中山氏は「誤解を招く表現だった」といずれの発言も撤回したが、まさに綸言汗の如し。麻生内閣に打撃を与えそうだ。

http://www.zakzak.co.jp/top/200809/t2008092627.html


「言い過ぎた」「辞任の考えはない」 国交相の謝罪一問一答

 中山成彬国土交通相は26日の閣議後会見で、25日の報道各社のインタビューで、「成田空港の拡張反対はゴネ得」「日本は単一民族」「教員汚職事件を起こした大分県教委のていたらくは、日本教職員組合(日教組)が原因」などと発言したことについて、「ご迷惑をおかけした」と謝罪した。一問一答は次の通り。

                ◇

 「昨日の発言について、国民のみなさまにご迷惑をおかけしたのを申し訳なく思う。誤解を招く発言なので撤回した。閣僚懇で、各閣僚は誤解をまねく発言は慎むようにという官房長官からの発言があった」

 −−確認だが撤回したのは成田と日教組、単一民族の発言か

 「言葉足らずというか、言い過ぎた点も含めてだ」

 −−国交省の所管事業が2つあるが、「成田」と「単一民族」について認識を改めてお願いしたい

 「国交省の仕事は初めてでよく分からなかった。その後、事務方から、成田については歴史的な経緯について説明を受けた。昭和41年の閣議決定移行、十分に住民の理解を得ることなく建設を進めた。賛成派と反対派の運動が激化する中で過激派の介入を許し住民に迷惑をかけた。国としては円卓会議などで解決に努力してきた。空港と地域の共生の元に、平成22年3月には平行滑走路を北伸して2500メートルの滑走路になる。これらを踏まえて、昨日の発言は撤回した」

 「単一民族については、頭の中にアイヌのこともあった。アイヌの人々は日本の北部周辺、特に北海道で独自の文化を有する先住民族ということを認識している。転居を余儀なくされたアイヌの人々が多数いたことを踏まえ、アイヌの人の誇りが尊重される政策を目指し、文部科学省とアイヌ文化振興法を進めている。アイヌ政策の推進に努めていく所存です。昨日の発言は誤解を招くと思い撤回した」

 −−大分県教委の発言については

 「これについても撤回しているので、これ以上は差し控えさせてもらう」

 −−改めて、昨日の記者会見ではどういう発言をされたのか

 「正確には覚えていないが、これからの日本の観光立国について、質問者の質問は『日本は内向きの民族で外国人を受け入れられにくい』ということでしたが、島国にあって、日本に住み着いて海外との交流が少なかったことが国際交流の妨げになっているというのが頭にあった」

 「空港問題については、日本のインフラ整備の後れについて、公のためにはある程度自分のことを犠牲にしてでも尽くすという精神が必要と普段思っているわけですから、空港だけでなく道路拡張などを念頭に置いた発言だったが、誤解を招くということで撤回しました」

 −−言葉足らずで誤解を招くことはあるが、あれだけ長く話している。本心なのではないか

 「私人としての発言と公人としての発言は区別しなければならないと認識した」

 −−昨日は私人としてのインタビューだったのか、国交相としてのインタビューだったのか

 「その自覚が不十分だった」

 −−大分県教委に謝罪はないが

 「事件は係争中なので、所管外ですし、発言を差し控えます」

 −−改めて単一民族という真意を

 「外国に行くと分かるが、米ニューヨークなどではまさに民族のるつぼいろいろな方がいる。日本に帰ってくると、同じような人が住んでいることで単一といってしまった。似通っているなと。ただ、日本列島には、色々なところから人が移り住んできたという認識は持っている」

 −−成田の発言について、道路のほか、公共事業でも同じことを考えているのか

 「私は宮崎の小さな農家出身です。市の道路拡張で先祖代々の宅地が半分以上削られた。小さなころから農作業をした長方形の田んぼがあったが、斜めに横切る道路ができ、なくなった。父は早くに亡くなっており、母は後家さんといわれ軽く見られたのかなと、残念に思いながら市の決定に従うべきではと思った。農家の強い思いは人一倍分かっているつもりですが、それについて撤回した」

 −−麻生太郎首相や、千葉県の堂本暁子知事には話したか

 「真意を説明してご理解いただきたい」

 −−発言を撤回したのは事務方に促されてか

 「アイヌの方々が不快の念を持っていると聞いて、それは自分の意図と違うなと思い自分で判断した。一度発言したことは戻りませんから。適切な言葉を探していたのですが、長年日本列島という、世界から隔離されたところに住んでいて内向きな国民性をつくったのかなと思っていたので、言葉というのは人によって違う取り方をして不快感をもたれるのだなと思った」

 −−一連の発言撤回ですが、政権への影響について

 「そういう影響がでてくるのは申し訳ない。国民のみなさまのご理解をいただけるようにしたい」

 −−誤解とおっしゃるが私人としては、国家のために個人の犠牲は必要と思っているのか

 「それは自分の政治信条ですから、変わらない。世のため人のために尽くしたいということで政治家になったのでそれは変わらない」

 −−大分県教委への発言は少ないが、撤回するのか

 「はい」

 −−政治信条としてとおっしゃったが、広く国民にもそういう考えを持ってほしいのか

 「率直に申しあげるとあるんですよね。道路建設については、予算措置も必要ですが地域住民の協力がないと進まない。成田について経緯を知らなかったものですから、本当に申し訳なかったということで撤回させていただいています」

 −−学力テストについて役割を終えたと言うが

 「それは文部科学省が決めること。発言するべきではなかった」

 −−道路特定財源の一般財源化について、一方で地元の現状を話していたが、59兆円の道路計画圧縮についてのご意見を

 「道路特定財源を一般財源化する方針は変わらない。宮崎県も含めて、もう少しつくってほしいという声を聞いているので、できるだけ財源を獲得したい。これから考えていきたい」

 −−一般財源化について未練があるのか

 「心の中ではそう思っているが、閣僚の一因としてやっていかなければいけない」

 −−辞任の考えは

 「ありません」

 −−日教組の強い地方は点数が低いという発言については

 「ご自分で調べてほしい。私の口からは差し控える。文科省に聞いて下さい」


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080926-00000549-san-bus_all



就任会見の模様



首相が首相なら、大臣もである。。。予想では鳩山邦夫総務大臣が先陣を切ると思っていたが、もっと上手がいたねぇ。

まあこれからも楽しみな舌禍内閣ではある。



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posted by zara at 18:19| Comment(0) | TrackBack(20) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月25日

小泉純一郎 政界引退

小泉元首相引退へ=次期衆院選に出馬せず

 自民党幹部は25日、小泉純一郎元首相が次期衆院選に出馬せず、今季限りで政界から引退する意向を固めたことを明らかにした。後継は次男の進次郎氏になるという。
 小泉氏は、衆院神奈川11区選出で当選12回。2001年4月から06年9月まで首相を務めた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080925-00000151-jij-pol



小泉 純一郎

(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )日本の政治家、衆議院議員、第87代・第88代・第89代内閣総理大臣(在任期間2001年4月26日 - 2006年9月26日)。

第132代外務大臣、第74代・第86代厚生大臣、第56代郵政大臣、第38代農林水産大臣。

内閣総理大臣の在任期間は1,980日と、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第3位の長期政権となった。また、中曽根康弘以来の、辞任せずに自由民主党総裁としての任期を全うした内閣総理大臣となった。

通称、「変人」(田中真紀子命名)。

2008年9月25日、政界引退を表明。

経歴

出生から初当選まで
小泉と家族。
小泉と家族。

1942年、 神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に「昇り龍」の入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”の異名で知られる大衆政治家だった。父純也は戦後に一時公職追放となるが、政界復帰して防衛庁長官をつとめた。

神奈川県立横須賀高等学校卒業。慶應義塾大学経済学部へ入学。ロンドン大学に遊学(公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で単位取得はなし)。1969年8月に父が急死したため帰国。

同年12月、亡き父の跡を継ぎ、弔い合戦を掲げて第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補。しかし、父の死から間もなく準備が不足しており、また政治家として修行を全くしておらず演説もまだ不得手だったため、結果は10万3000票余りを獲得するが4000票差で落選した。

翌1970年より、福田赳夫大蔵大臣の書生を務める。 後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。

1972年12月、第33回衆議院議員総選挙において12万2000票余りを獲得して自民党公認で初当選した。清和会(福田派)に属した。後に小泉政権で内閣総理大臣秘書官となる飯島勲が秘書となり、以後、2007年9月13日までの35年間にわたり二人三脚で進むことになる。

衆議院議員

衆議院議員となると、同期の山崎拓・加藤紘一とは国会での席が近いこともあって特に懇意になった。この2人との関係は、後にイニシャルからYKKと呼ばれる盟友関係に発展する。

1979年、当選3回目にして第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任した。この大蔵政務次官在任中に、役人が民間の仕事を奪う実態を見たことで「官から民へ」の環境をつくる郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)の民営化を持論としたといわれる。郵政民営化論は、政治家としてのライフワークとなる。当時は、国鉄や電電公社の民営化以前でもあり、巨大公共機関である郵政の民営化は荒唐無稽な暴論と考えられており、特定郵便局が自民党の票田であり、全逓信労働組合が野党にとっての票田となっていたことから、郵政は、いわゆる聖域であると考えられていた。しかし、上司である大蔵大臣の竹下登とは親しかったようである(後年竹下改造内閣で厚生大臣として初入閣していることなどから)。

大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分をつくらない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。

1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の創始者泰道照山の孫と結婚するが、1982年に離婚している。「離婚するのは、結婚の十倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している。元夫人との間には3人の子どもがおり、長男は後に俳優となる小泉孝太郎である。公私の面の補佐は姉が務めることになる。

1988年、竹下内閣改造内閣で厚生大臣として初入閣を果たす。就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げる痛みを伴う改革を打ち上げている。

1989年にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も女性スキャンダルがもとで参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの中選挙区制から小選挙区を軸とした制度への選挙制度改革が、政治改革として主張されるようになった。小泉は、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の羽田孜と対立した。後に首相時代の衆議院選挙では、郵政民営化への民意を問うとして解散を行い、小選挙区制の特質による影響を強く受け、自民党の大勝を実現した。

宇野の後継となった海部俊樹総理は、河本派に属していたが、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた総理で、自民党は田中角栄の木曜クラブの系譜を引く経世会の支配下にあった。

1991年の総裁選での再選を目指していた海部に対抗し、中堅実力派議員となっていた盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、もともと弱体だった海部の指導力は機能不全に陥った。懸案の政治改革三法案が廃案になったことで海部は解散に打って出ようとするが、それもできず遂に総裁選不出馬に追い込まれた。小泉・山崎・加藤のYKKグループはこの政争で名を上げた。

代って宮澤喜一が総理・総裁に就任し、1992年の宮澤内閣改造内閣では、待望の郵政大臣に就任する。就任の会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを発言して、省内と郵政族議員たちを激怒させた。結局、この老人マル優限度額引き上げ見直しは郵政族の反発で失敗、その後も族議員や省内から攻撃を受けるなど孤立して苦渋をなめている。

国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こったさいには、宮沢改造内閣の郵政相として閣議の席で、政府の自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた[2][3]。この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている[4]。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」と強調した[5]。

1993年、細川護熙の日本新党の立ち上げにより政界再編の機運が高まり、経世会が分裂し、小沢一郎・羽田孜らが賛成したこともあり、宮澤内閣不信任案が可決された。小沢・羽田らは自民党を離党し新生党を設立、続く第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤総理の責任や退陣を求めることを明言したが、現職閣僚が総理の辞任を正面から要求することは前代未聞であった。閣僚懇談会でも重ねて辞任を要求し、大臣の辞表を提出した。辞任後宮澤が郵政相を兼任するも翌月辞職した。

総裁選への挑戦

衆議院選挙の結果を受けて、日本新党の細川護熙が、新生党や新党さきがけ・社会党・公明党・民社党の支持により首班としての指名を受け、連立政権が成立し、長らく与党であり続けてきた自民党は野党に転落した。自民党総裁にはクリーンなイメージがあるとして河野洋平が就任した。

政界の混迷は続き、細川総理は佐川急便事件を契機としてあっけなく辞任した。続く、新生党の羽田政権も短命に終わり、自民党は政権奪回のために、基本政策の上で大きな違いのある社会党と連立を組み、社会党委員長の村山富市を総理に推していわゆる55年体制のもとでは考えられない連立を構築することで政権に復帰した。この自社さ連立政権下でも、実力者野中広務らの経世会→平成研究会が主導的な力を持つようになった。

一方、政権奪回を目指す野党は、小沢一郎の主導により野党合同を実現して新進党を結党する。1995年の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗れ、河野総裁の責任問題に発展するが、河野は9月に予定される総裁選での続投を望んだ。河野に不満な平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立して、河野続投阻止にかかる。小泉の清和会は河野を支持していたが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。

すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だった。それでも若手議員のグループが小泉を推し、その中に後に総理になる安倍晋三がいた。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。

1996年に村山総理が辞任し、橋本内閣が成立した。小泉は第2次橋本内閣で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。橋本総理はもちろん内閣の誰も郵政民営化を全く考えず、ある閣僚は「暴論」とまで言った。

同年、小泉は在職25年の議員に与えられる永年在職表彰を辞退して、相変わらず永田町の変わり者ぶりを示した。

橋本総理は、消費税の引き上げを断行したことで、平成不況から立ち直りかけた景気を再び落ち込ませたと批判を受け、 1998年の参議院議員選挙で民主党・共産党などの野党に大敗し退陣した。後継は、平成研究会の小渕恵三が有力だったが、無投票を阻止したい若手議員たちは小泉に出馬を要請するが、小泉は勝ち目がないとして渋った。しかし、平成研究会が分裂し梶山静六が出馬したことなどから、若手の説得により出馬を表明した。しかし、結果は盟友の山崎・加藤の支持も取り付けられず、自身の清和会すらも固めることはできず最下位に終わり、大方の予想通り小渕が総裁に選出された。

加藤の乱

詳細は加藤の乱を参照

2000年、小渕総理が急死し、党内実力者の青木幹雄、野中広務らの支持により幹事長だった森喜朗が総理・総裁に就任した。森が会長を務めていた清和政策研究会(森派)の会長には小泉が就任した。

この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、その上に失言が次々とマスコミに大きく取り上げられ、支持率は急落した。2000年11月には遂に18.4%を記録する。これに危機感を抱いた反主流派の加藤紘一・山崎拓は、公然と森総理退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、野党の提出する内閣不信任案に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は、森総理支持の立場を明確にした。小泉は、いわゆる加藤の乱と呼ばれる動きを察知するや、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。

加藤は、マスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めたインターネットを通じて世論の支持を受けた。だが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。

政争を乗り切った森政権だが、相変わらず支持率は低迷。2001年2月、えひめ丸事件で高校生が多数死亡した際に、ゴルフ場で事故の報を受けた後も森総理がプレーを続けたとして激しい非難を受け[6]、遂に退陣に追い込まれた。

小泉旋風

詳細は小泉旋風を参照

森の退陣を受けた2001年4月の総裁選では、平成研究会が橋本元総理を擁立したほか、麻生太郎・亀井静香が出馬を表明した。清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は自派森派に加え、加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)の協力を受けた。

最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般党員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。小泉は予備選で地滑り的大勝をし、4月24日の議員による本選挙でも圧勝して、自民党総裁に選出された。4月26日の首班指名で第87代内閣総理大臣に就任した。

内閣総理大臣
小泉 純一郎
(こいずみ じゅんいちろう)
第87・88・89 代
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 2001年4月26日
- 2006年9月26日
生年月日 1942年(昭和17年)1月8日
出生地 神奈川県横須賀市
出身校 慶應義塾大学
ロンドン大学(留学)
学位・資格・称号 経済学士
前職 厚生大臣
自由民主党総裁
世襲の有無 3世
祖父・小泉又次郎(衆議院議員)
父・小泉純也(衆議院議員)
選挙区 衆院神奈川11区
当選回数 衆12回
党派 自由民主党
没年月日 {{{没年月日}}}
内閣総理大臣紋章
内閣総理大臣
現職・麻生太郎
歴代の総理と内閣
・歴代内閣総理大臣
・歴代内閣
総理が使う施設や機材
・総理官邸・総理公邸
・政府専用機
総理を補佐する人々
・内閣官房長官
・内閣総理大臣補佐官
・内閣総理大臣秘書官
・内閣総理大臣夫人
総理関連の用語
・首班指名選挙
・内閣総理大臣臨時代理
・班列と無任所大臣
・内閣総理大臣の辞令
総理関連の表彰
・内閣総理大臣杯
・内閣総理大臣顕彰
・国民栄誉賞


2004年11月14日、小泉純一郎とアメリカ合衆国国防長官ドナルド・ラムズフェルド
2004年11月14日、小泉純一郎とアメリカ合衆国国防長官ドナルド・ラムズフェルド
2006年6月29日、小泉純一郎とアメリカ合衆国大統領ブッシュ
2006年6月29日、小泉純一郎とアメリカ合衆国大統領ブッシュ

内閣総理大臣に就任した小泉は、組閣にあたっては、慣例となっていた派閥の推薦を一切受け付けず、閣僚・党人事を全て自分で決め、「官邸主導」「総理支配」と呼ばれる流れをつくった。山崎を幹事長に起用する一方で、最大派閥の平成研究会からは誰も党三役に起用しなかった。人気のある石原伸晃を行政改革担当大臣に、民間から経済学者の竹中平蔵を経済財政政策担当大臣に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は外務大臣に任命された。5人の女性が閣僚に任命された(第1次小泉内閣)。

「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。

発足時の小泉内閣の支持率は、87.1%(読売新聞社調べ)と空前の高い率を記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。この小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

終戦の日の8月15日に靖国神社参拝をすることを、小泉は総裁選時に公約としていた。総理の靖国神社参拝は中国・韓国の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。以後も毎年、日や形式を変えつつも参拝を行った。中国・韓国はこれに強く反発し、首脳の相互訪問が途絶えるなど、中韓との外交上の懸案事項となった。

9月11日、米同時多発テロの発生を受けて、ブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持した。米軍らのアフガニスタン侵攻を支援するテロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動させた。宮沢改造内閣の閣議での発言を翻すものであった。

国際情勢が緊迫するなか、外交機密費問題などで世論の批判を受けていた外務省は、田中外相が野上外務次官を初めとする外務官僚や外交族の鈴木宗男と衝突し、スキャンダルの暴露が応酬されるなど機能不全に陥っていた。当初は、混乱を他人事のように語っていた小泉も、2002年2月には遂に田中を更迭した。人気のあった田中の更迭により小泉内閣の支持率は急落した。田中は、この処置を恨んで以後小泉を常に批判しているが、秘書給与疑惑が持ち上がって8月に辞職に追い込まれた。

この間、社民党の辻元清美衆議院議員は鈴木を「疑惑のデパート」と追及して名を上げていたが、2002年4月には自身が秘書給与疑惑で辞職を余儀なくされた。鈴木は6月に収賄容疑で逮捕され、加藤も政治資金流用疑惑で4月に辞職した。

「政治とカネ」のスキャンダルの連発で支持率を落とした小泉だが、2002年9月に電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、5人の拉致被害者を帰国させた。ところが、8人死亡・1人行方不明とする北朝鮮の回答が不十分なものであり、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなどで、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せた。国交正常化交渉は頓挫し、北朝鮮との外交問題は小泉政権を通しての懸案となる。

北朝鮮との外交で強硬路線を主張し、拉致被害者家族との信頼関係を築いた安倍晋三官房副長官が国民的な人気を得るようになった。また、拉致被害者が帰国したことで一定の成果は上げたとして小泉の支持率はまた上昇に転じた。

2002年9月30日、小泉改造内閣が発足。柳沢伯夫金融大臣を更迭して、竹中経財相に兼務させた。これにより、以後は不良債権処理の強硬策を主張する竹中が小泉政権の経済政策を主導した。

2003年3月、アメリカはイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒した。小泉は開戦前からアメリカ支持を表明したことで、アメリカ追従外交として野党やマスコミの一部から批判を受けた。日米同盟こそが外交の基軸とのスタンスを崩さず、ブッシュ大統領との蜜月関係を守った。イラク戦後復興支援のための陸上自衛隊派遣が喫緊の課題となり、7月にイラク特措法を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案(有事法制)を成立させている。

9月に予定される自民党総裁選では敵対する平成研究会が、実力者野中広務を中心として、藤井孝男元運輸大臣を擁立して小泉降ろしを図ったが、平成研究会の参議院の実力者である青木幹雄参院幹事長はこれに与せず、野中は平成研究会の票をまとめることができずに大敗した。野中は10月に政界引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、小泉・森の清和政策研究会が党の主導権を掌握することになる。

2003年9月、自民党総裁選で再選された小泉は小泉再改造内閣発足させ、党人事では当選3回の若い安倍晋三を幹事長に起用する異例の人事を行った。これはイラク戦争への支持などで世論の批判を受けて苦戦が予想される 11月の総選挙に向けて安倍の人気を必要としたからとされる。その結果、11月の総選挙では絶対安定多数の確保に成功する。閣僚を留任させた第2次小泉内閣が発足。一方、小泉の盟友の山崎拓は女性スキャンダルがもとで落選している。

2004年1月、自衛隊のイラク・サマーワへの派遣を行った。しかし、4月に武装集団がイラクにいた日本人を拉致して「イラクからの自衛隊の撤退」を要求する事件が起きた(イラク日本人人質事件)。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(但し小泉の強硬姿勢が功を奏したわけではなく、地元部族長の仲介によるもの)。さらに2人が拉致され後に解放される。

2004年5月、小泉は再訪朝し平壌で金正日総書記と会談した。北朝鮮に対する25万トンの食糧や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。これに伴い、5人の拉致被害者の子供の帰国を実現した。その後の北朝鮮の対応はおよそ日本の世論を納得させるものではなく、火に油を注ぐ格好になり、日朝国交正常化交渉は再び暗礁に乗り上げ、その後、北朝鮮は日本を無視。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

2004年7月、第20回参議院議員通常選挙で自民党が改選議席数割れになり、安倍幹事長は辞任、武部勤が後任となった。

破綻しかけている年金制度の改革が国民の重大な関心事となっており、6月に年金改革法を成立させるが、抜本的な改革には程遠いものだった。小泉の最大の関心は長年の持論の郵政民営化にあった。参院選を終えたことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、郵政民営化を最優先事項とした。

2005年6月、国民保護法が成立し、国と地方自治体の武力攻撃に対する対処法が定められた。

小泉劇場

詳細は小泉劇場を参照

2005年、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香、平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めて気勢を上げた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って採決で強行突破した。これに反対派は猛反発する。ここにおいて、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されるが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じている。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が否決されれば直ちに解散するとを言明するが、亀井ら反対派は、解散発言は牽制であり、そんな無茶はできまいと見ていたようだ。

2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宣伸農林水産大臣を罷免、自ら兼務して閣議決定した。同日、憲法7条に基づき衆議院を解散した。

小泉は、法案に反対した議員全員に公認を与えず、選挙区には「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を「郵政解散」と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。解散はできないと考えていた亀井らの対応は、完全に後手に回った。反対派議員をまとめることもできず、亀井は綿貫民輔ら少数で国民新党を結党して、苦戦を強いられることとなった。最大野党の民主党も、解散当初こそ政権交代の好機到来と気勢を上げるも、選挙戦が本格化してからは、二転三転する郵政政策により、明確な争点を見出せぬまま、そのまま埋没していった。選挙戦は小泉が終始、主導権を握った。

マスコミ報道を利用した(但し、一部マスコミを除く)劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功し、それにより9月11日の投票の結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席の歴史的圧勝を納めた。最大野党の民主党は改選前の177議席を大きく下回る113議席の惨敗を喫し、岡田克也代表が辞任している。実際の与野党の得票数の差の比率はこの結果ほどは離れていない。これは死票が多く、優勢な側に地滑り的な勝利が起き易い小選挙区制度の特性でもあった。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれることになる。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日 の特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回った。これにより小泉の長年の悲願がようやく実現された。

ポスト小泉

詳細はポスト小泉を参照

2005年10月、第3次小泉改造内閣が発足。ポスト小泉と目される麻生太郎が外務大臣に、谷垣禎一が財務大臣に、安倍晋三が官房長官に起用された。

党勢回復をはかる前原誠司新代表の民主党は、耐震強度偽装問題や皇室典範改正問題などを追及して与党を苦しい立場に追い込んでいたが、2006年2月のライブドア送金指示メール騒動であえなく自滅し、前原代表は辞任に追い込まれた。

小泉は2006年9月の総裁任期満了での退任を表明しており、焦点はポスト小泉に移り、麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫、安倍晋三の『麻垣康三』が次期総裁を巡って争った。総理としての最後の通常国会では小泉は重要法案が幾つか残っている状況でも会期延長を頑なに拒否して、行政の長の国会運営への過度の介入だと批判を受けている。

8月15日の終戦記念日に小泉は最初の総裁選の公約を果たして靖国神社へ参拝した。

2006年9月20日の総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継総裁に選ばれる。翌9月21日 に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日 に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。新総理には安倍晋三が指名された。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後3位の長期政権となった。

総理退任後

総理退任後は、テレビ出演やインタビューなど、国民の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの大反響になる。

小泉は院政の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻っていない。岸信介や田中角栄、中曽根康弘、竹下登など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、町村信孝が継承)。しかし、何かと新党立ち上げの噂が出るのも事実である。

国民人気は根強いが、公的露出を控えることでこの人気を利用する動きは見せていない。これは小泉が露出することによって、安倍前首相より目立ってしまうことを避けるためとされる。国民人気が根強いため、時々発せられるさりげない一言が逆に世間に大きく注目されることがある。

「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定している。2007年9月12日に、安倍晋三首相(自民党総裁)が辞任を表明した際、ポスト安倍として小泉チルドレンから総裁選立候補の打診があったが、本人は「100%出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と福田康夫支持を表明したが、これが飯島秘書官に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)[7][8]。

2007年と2008年の8月15日(終戦記念日)の朝、2006年と同様に靖国神社を参拝した[9]。

2007年9月、安倍晋三総理総裁が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と福田康夫支持の意向を示した。また、2008年5月22日には、東京都目黒区にて佐藤ゆかり応援演説を行った[10]。

政界引退

麻生内閣が成立した翌日の2008年9月25日、地元支持者の会合において、次回の衆議院選挙に立候補せず、引退する意向を明らかにした。

政治手法

小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。

政権公約となった政策

靖国神社への8月15日(終戦の日)参拝

2001年の自民党総裁選で「私が首相になったら毎年8月15日に靖国神社をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と公約。しかしながら、2001年から2005年までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する2006年には8月15日に参拝した。本件については靖国神社問題の項を参照。

郵政民営化

2005年に政府が国会に提出した郵政民営化法案が衆議院において可決された後、参議院において否決されたため衆議院を解散した(郵政解散)。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で再可決することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法案が可決された。

タウンミーティング

タウンミーティングの構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の所信表明演説で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使ったやらせ質問の横行、電通社員へ日当10万円の払い、エレベーター係へ一日数万の払い、などといった不透明な実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱もかかっていた。(詳細はタウンミーティング 小泉内閣の国民対話を参照)

国債30兆円枠

小泉内閣は各年度予編成において国債発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げたが、達成できたのは2001年度と2006年度予算の2回のみだった。その際、「(守れないことは)大したことじゃない」との発言を行った。

年金改革

年金制度を変革。老齢者控除廃止や公的年金等控除の縮小をした。

医療制度改革

医療制度改革関連法案を国会で可決させ、サラリーマンの医療費負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。 2008年度からは70-74歳で今は1割負担の人も2割負担になる。また、2006年度の診療報酬改定では、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減したほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に報酬を加算することなどが決まっている。

女系天皇容認

長い間、皇室に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、皇室典範に関する有識者会議を設置し女性天皇・女系天皇を認めさせようとしたが、改正審議の際、秋篠宮家における懐妊ニュースを聞いて断念した。

一内閣一閣僚

小泉は閣僚が交代するのに批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していた。しかし、田中真紀子外相の更迭で原則を崩し、 2002年9月30日に内閣改造を行い、以後1年間をめどに定期的に内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して国務大臣だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。

他の政策

内政

* 自由競争と市場原理を重んじる竹中平蔵を閣僚に起用した。
* 竹中平蔵、菅義偉に地方公共団体の財政健全化基準を作成させた。
* 公的資金を銀行に貸し付けることで、150兆円にも及ぶ銀行の不良債権処理を行った。
* 時限立法である株式会社産業再生機構法を成立させて財務体質が問題である企業を個別に支援した。
* 共産党以外のすべての党から賛成を得て労働基準法と労働者派遣法を改正し、派遣社員の派遣期間を3年から無制限に延長した。
* 同様に労働基準法の改正で、企業による解雇権濫用を無効とした。
* 2003年の通常国会において、有事関連法案を与党自民党と民主党の賛成を得て可決させた。
* 介護保険では特別養護老人ホームなど施設入所者の居住費、食費を保険から外した。
* 国民負担率の維持を試みたが、日本医師会の反対により医療費の伸び率管理を断念した。
* 財政再建のため、診療報酬の引き下げ(2002年に1.3%、2006年に1.36%)、サラリーマンの窓口負担の増加(2割→3割)、保険料の引き上げ(月収をベースとした算定→年収をベースとした「総報酬制」)の三方一両損を行った。
* パソコン等の製造業者にリサイクルを義務付ける資源有効利用促進法を成立させた。
* 道路関係四公団の民営化法案成立。
* 構造改革特区により規制緩和を促進。
* 特殊法人(住宅金融公庫など)の独立行政法人化。
* 2006年には谷垣禎一財務相、中川昭一農水相の反対を押し切って、6.5兆円の不良債権(2007年3月期)を抱える政策金融機関の統合民営化(株式会社日本政策金融公庫)を推し進めた。
* 三位一体の改革として地方交付税の削減、地方への税源移譲。
* 生活保護費や児童扶養手当の削減。
* 最低資本金制度の特例措置(後に会社法の制定)により1円から企業を立ち上げることを可能にした。
* 国家戦略本部を設置。
* ハンセン病訴訟において、国側の責任を認め患者・遺族側と和解。
* 特別会計合理化法案(仮称)を閣議決定し、特別会計透明化の方向性をつけた。
* 障害者自立支援法を成立。受益者は介護・訓練費用の1割を負担することとなった。

外交
2005年パースシャーサミットに日本の首相として参加(後部列右から2番目の人物)
2005年パースシャーサミットに日本の首相として参加(後部列右から2番目の人物)

* 郵政民営化など米国からの要望をまとめた年次改革要望書の内容を実行に移した(ただ、郵政民営化については1970年代から主張していた)。
* 靖国神社参拝により、中国・韓国の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。
* アメリカ同時多発テロ後にテロ対策特別措置法を制定し、アメリカのアフガニスタン侵攻では海上自衛隊をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「イラク復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定した。
* 戦略的外交諮問機関 対外タスクフォースを設立。
* 日本に観光客を呼び込むYOKOSO!JAPANキャンペーンを実行。その一環として、中国人や韓国人、台湾人等の観光客に対するビザ免除等を行った(日本国籍者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。
* 北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、五人が生存して日本へ帰国。(交渉継続中)

主な所属議員連盟

* 改革加速議員連盟
* 北京オリンピックを支援する議員の会顧問

人物像

信念・容姿

* 身長は169cmと前任の森喜朗(175cm)よりも低いが、肥満型の森と比較して痩せ型のためか森よりも高身長に思われていた様である(長男の小泉孝太郎は177cm)。ちなみに後任の安部晋三は175cm、福田康夫は171cmと21世紀に総理大臣を務めた人物では一番背が低い。
* 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
* 郵政民営化や道路公団民営化などに反対する議員・団体・勢力を「抵抗勢力」と呼んだ。
* 国会演説や記者会見などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
* 愛読書は『ああ同期の桜』(海軍飛行予備学生第14期会編)。
* 尊敬している人物は吉田松陰である。
* 国会では「極東国際軍事裁判を受諾し、A級戦犯は戦争犯罪人と認識している」と答弁している。
* 2006年9月の自民党総裁任期満了をもって総理及び総裁の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉総理自身は総理・総裁辞任後は院政を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
* 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターがつくられた。なお、2005年冬に米国俳優のトム・ハンクスと米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。
* 人からの贈り物は、ほとんど受け取らない。バレンタインのチョコレートも送り返している。
* 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、その席上で仲人の新郎新婦紹介で、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と、列席者すべての度肝を抜いた発言をしたこともある。
* 米国俳優のリチャード・ギアと面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。

対人関係

* 福田赳夫に師事した。
* 第43回衆議院議員総選挙で一度は落選した盟友、山崎拓を首相特別補佐官として登用し、2005年4月24日の衆議院議員補欠選挙では山崎は再び議員に返り咲いている。その後は靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠化したとも言われている。
* 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前神奈川県議会議長)は、暴力団稲川会の元組員であり、故石井会長と非常に親しい関係にあった[11]。

対外関係
2006年6月29日ホワイトハウスにて、盟友ブッシュ大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉首相。
2006年6月29日ホワイトハウスにて、盟友ブッシュ大統領と握手しながら記者会見を行なう小泉首相。

* 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線にのっとっている。アメリカ同時多発テロの際は被災地のニューヨークを訪問し、イラク戦争においては諸外国の中でいち早く自衛隊の海外派遣を決定したが、派遣した国の元首の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
* アメリカのブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプデービッドの別荘に招かれた。この親密ぶりを渡辺宜嗣は、「『ロン・ヤス関係』を超えた」と評した。
* 2002年カナダで開催されたカナナスキスサミットの際、冗談めかして「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言い両手両足をついてブッシュ米大統領の足元にひれ伏すという日米関係を象徴するかのようなパフォーマンスを演じた。
* 2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、当時関係が冷却化し日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名した。両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。
* 北朝鮮に対しては対話と圧力を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
* 靖国神社への参拝をめぐり反発する中国・韓国との関係は悪化。反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。

音楽・芸術関係

* 解散したロックバンド、X JAPANの大ファンであると公言している。(X JAPANは2008年3月に再結成)その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『Forever Love』を採用した。
o 小泉内閣で経済産業副大臣を務めた高市早苗によれば、小泉とカラオケをした際にX JAPANのシングル曲である『Rusty Nail』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。本人はバラード曲である『Tears』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。
o 1998年5月2日に死去した元X JAPANのメンバー(ギタリスト)で、同郷でもあるhideの記念館(地元の神奈川県横須賀市)の設立に協力した。
* オペラ(歌劇)、狂言、歌舞伎、映画鑑賞が趣味である。
o 中でもオペラへの関心は高く、2003年のドイツ公式訪問では本人の強い希望でバイロイト音楽祭を訪問し、リヒャルト・ワーグナー作のタンホイザー全3幕を鑑賞した。2001年に日本でメトロポリタン・オペラが公演を行ったときも、『サムソンとデリラ』を鑑賞している。
o 多くの映画音楽を手掛けている音楽家エンニオ・モリコーネのファンでもあり、2005(平成17)年10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。
o 「好きな映画ベスト3」は「ショーシャンクの空に」「ニュー・シネマ・パラダイス」「フィールド・オブ・ドリームス」であると毎日新聞に掲載された。(2000年)
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2006年6月29日、エルヴィス・プレスリーの故郷、グレイスランドに向かう小泉。
2006年6月29日、エルヴィス・プレスリーの故郷、グレイスランドに向かう小泉。
オールディーズ時代のロックンローラー、エルヴィス・プレスリーの大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。
o 2006年6月30日に日米首脳会談後、エアフォースワンにブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「グレイスランド」を公務として訪問した。そこで「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながらエアギターを披露し、失笑を誘った。
o エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。
* 小泉内閣最後の官邸メールマガジンに、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。

スポーツ・芸能関係

* 大相撲に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
o 首相就任直後の2001年5月の夏場所では、たいていは内閣官房副長官(政務)が担当する総理大臣杯の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱貴乃花光司に対して「痛みに耐えてよく頑張った! 感動したっ! おめでとう!」との賛辞を送った。「感動したっ!」は流行語ともなった。ただし、この負傷が原因となって、貴乃花はこの優勝を最後に現役を引退した。
o 郵政解散で大勝した年の2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱朝青龍明徳に対して、「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京両国国技館であったが、この時は福岡国際センターである。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
* プロ野球での支持球団は神奈川県を本拠地とする横浜ベイスターズ。同球団の2軍が独立採算制の湘南シーレックスとなった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また堤義明とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった西武ライオンズのホームゲームを観戦に西武ドームに何度も足を運んだ。横浜高校出身の松坂大輔が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事も有った。
* サッカーの2002 FIFAワールドカップでは、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために国立競技場を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦がドイツ対ブラジルになったのを受け、カナダのカナナスキスサミット(第28回主要国首脳会議)で同席したドイツのシュレーダー首相を日本国政府専用機に乗せ、横浜国際総合競技場に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される(治外法権)など特別な事情があり、外国の元首や要人が同乗するのは異例)。
* スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行う。これは小泉のスポーツ好きを示す例であり、小泉が世間の話題に敏感であるという例の一つでもある。
* 1998年、世界のワイン名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。<