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2007年06月29日

17歳力士はなぜ死んだのか?

17歳力士がけいこ中に急死

大相撲の序ノ口力士、時太山(17)=ときたいざん、本名斉藤俊(たかし)さん、時津風部屋=が、急死したことが28日分かった。26日に、名古屋場所のため愛知県犬山市にけいこ場を設けている時津風部屋でけいこ中に体調を崩し、犬山市内の病院に搬送された後、急性心不全で死亡した。愛知県警犬山署は、遺族の希望により新潟大で28日に行った行政解剖の結果、多発外傷によるショックが死亡につながった可能性があると発表し、けいこに行きすぎがなかったかなど関係者から事情を聴く方針。

 犬山署によると、斉藤さんは26日午前に約30分間、兄弟子の胸を借りたぶつかりげいこの最中、気分が悪くなり約1時間休んだ。呼吸が荒くなっているのに気付いた兄弟子らが119番。同日午後2時10分、病院で死亡が確認された。

 犬山署は、新潟大で28日行った行政解剖の結果、多発外傷によるショックが死亡につながった可能性があると発表した。当日の張り手などの激しいけいこが心臓停止につながったと考えられるが、直接の死因は特定できなかったという。

 斉藤さんのほおなどにはかすり傷があったほか、肋骨(ろっこつ)一本の骨折が見つかったが、単独で死亡につながる傷はなかった。同署は、けいこに行きすぎがなかったかなど詳しい状況について関係者から事情を聴く方針。

 斉藤さんは今年春、入門したばかりで、名古屋場所で「序ノ口」で初めて番付にのったばかり。新潟市在住の父の斉藤正人さん(50)によれば、亡くなる5日ほど前に、新潟に帰ってきて「けいこが厳しい。上下関係がきつい。やめたい」ともらしていたという。正人さんは「部屋に戻らせたが、まさかこんなことになるとは」と話したが、その後、遺族として「行政解剖の結果に納得した。これ以上話を大きくしたくない」などとするコメントを発表した。

 この日夜、記者会見した時津風親方(元小結双津竜)は「本当に申し訳ないとしか言えない」と謝罪。いじめやしごきなどがあった可能性については「そんなことはやらせないし、力士にそんな気持ちはない。警察から事件性は一切ないと言われた」ときっぱり否定した。

http://www.daily.co.jp/general/
2007/06/29/0000422988.shtml


tktb.jpg

親方誠意なし…17歳力士急死、耳は裂け根性焼き痕

 大相撲名古屋場所を迎える愛知県犬山市で、時津風部屋の序ノ口力士、斉藤俊(たかし)さん(17)=時太山=がけいこ中に急死した。新潟市内の実家に戻った遺体は、家族も正視できないほどひどい状態だったという。激しい稽古で鍛え上げるのが角界の常識とはいえ、根性焼きの跡も。何度も部屋からの“脱走”を図った斉藤さんに何が起きたのか。愛知県警では事件と事故の両面から慎重に捜査を進めている。

 「顔面は赤く腫れ、身体中にはアザとすり傷。耳は裂けていた。さらに太腿にはたばこを押しつけたやけどの痕が3カ所あった」。斉藤さんの叔父(44)はこう語った。

 新潟県の自宅に戻った遺体の惨状は正視に耐えられないものだった。「今は何も考えられない。頭がパニックになっている…」と憔悴(しょうすい)しきった声で話した父親(50)は血圧が200まで上昇し、寝込んでしまった。

 「お兄ちゃん子だった小学3年の妹は、遺体のあまりの惨状を目の当たりにし、全身を痙攣させ、半狂乱で『お兄ちゃーん』と叫んだ」(叔父同)。遺族は弔問に訪れた友人らにも、「とても見せられない」と、遺体と対面を断った。

 斉藤さんがけいこ中に倒れ、犬山市内の病院に搬送されたのは26日。午前中のぶつかりけいこ中に突然意識を失い、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は「虚血性心疾患(急性心不全)」。愛知県警によると、全身に皮下出血やすり傷があり、肋骨(ろっこつ)の軟骨部分に骨折した跡があった。

 28日行われた新潟大病院での行政解剖は、「多発性外傷によるショック死が考えられる」との所見だった。

 「これまで体に異常は一切なかった。新弟子検査もパスしてるんだから心臓の疾患はとても考えられない」(叔父)

 斉藤さんは地元県立高校を2年で中退し、4月から時津風部屋に入門したばかりだった。叔父は「格闘技に興味を持っていた。同郷の知り合いがいた時津風部屋への入門を薦めた。ヤンチャな子だったから精神修行のつもりもあった」と話す。

 だが、修行の辛さに斉藤さんは6月に入り、3度脱走していた。

 5日前、千葉の親戚(しんせき)から金を借りて戻ってきた。「やるにしてもやめるにしてもちゃんと会って話さなければいけないと送り出した。今考えると、無理に行かせなければよかった」(叔父)。

 高校ではテニス部に所属。斉藤さんを知る学校関係者(49)は「体格がよく元気な子だった。これから活躍すると思っていたのに…」と語った。

 27日午後、自宅に時津風親方が事情説明に訪れた際、傷のひとつひとつについて遺族が「これもけいこでつくんですか」と説明を求めると、親方は「はい」と答えるのみ。「根性焼」の痕をただすと、口ごもりながらも「…うちにはたばこを吸う人間はいない」とだけ答えたという。

 行政解剖の結果に納得したという親族だが、「法的手段に訴えるようなことはない」としながらも、「今後は警察に任せます。今は捜査上の問題があるから何も言えない…。それで察してほしい」と語るのみだった。

 愛知県警犬山署は「死因から事件、事故の両面で捜査中」として、時津風部屋の力士らから事情を聴いている。

http://www.zakzak.co.jp/top/2007_06/t2007062910.html


両親の話では額にも裂いたような傷があったとか。。。時津風部屋では額や耳も鍛える稽古があるのか?
もちろんそういった傷が死因になったわけではないだろうが。

3度の脱走の最後はなくなる日の前日、6月25日だったそうだ。その時は有無を言わさず連れ帰られたようだが。。。




9月26日傷害致死で立件されるようです


時津風部屋は人殺し部屋


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posted by zara at 13:39| Comment(0) | TrackBack(9) | スポーツ全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

契約書なし年800億 社保庁&NTTデータ

契約書作らず年800億円 社保庁、NTTデータに

 「宙に浮いた5000万件の年金記録」を保存している社会保険庁のコンピューターシステムを巡り、契約書がないまま、年間800億円超の保険料や公費が業務委託先のNTTデータに支払われていたことが、28日分かった。野党からは「あまりにずさんな契約」と批判が上がっている。

 会計検査院や社保庁が同日、参院厚生労働委員会での民主党の藤末健三議員への答弁で明らかにした。会計検査院は今後、こうした契約状態について検査する方針だ。

 社保庁のシステムは、NTTデータが担う「年金記録システム」と、日立製作所が担当する「年金給付システム」に分かれている。05年度は年間計約1140億円が社保庁側から支払われ、うち約840億円はNTTデータへの支払いだった。

 28日の審議で、藤末議員が利用契約書の有無を尋ねると、会計検査院は「06年度まで契約書は作成されていなかった」と答弁した。NTTデータと社保庁側は99年の契約約款で「利用契約を締結する」と定めていたが、利用契約は結ばれていなかったという。

 柳沢厚労相も「見過ごすわけにはいかない。実態を早急に把握し、措置をとりたい」と調査する意向を示した。

http://www.asahi.com/politics/
update/0628/TKY200706280388.html




国の機関で随意契約が多くて問題になりましたが、これは一体何なんだ?
随意契約でもないわけだよね。契約してないんだから。。。
会計検査の対象にもならないのかと思いきや、ちゃんと会計検査院が「06年度まで契約書は作成されていなかった」と答弁するんだから。。。

まあ兆単位で金を使ってしまう社保庁にとっては、こんなこと朝飯前?


ホントか嘘か知らんけど、NTTと日立が自民党に渡した献金は2億2700万円




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posted by zara at 09:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 年金 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

無尽蔵 ミートホープの不正疑惑 まとめ動画あり

雨水で食肉解凍の疑い、ミートホープ社を保健所が調査

 北海道・苫小牧保健所は28日、ミートホープが、食肉の解凍に雨水を使用していた疑いがあるとして、同社を食品衛生法に基づいて立ち入り調査した。

 田中稔社長は28日朝、雨水使用について報道陣に対し、「調べてみれば全部わかること」と述べ、否定も肯定もしなかった。

 27日に民主党の国会議員団が苫小牧市を訪れ、元社員から雨水を冷凍肉の解凍に使っていたとの証言を得ていた。加工などで使用できるのは、水道水か殺菌地下水で、雨水は床掃除などでしか使えず、同保健所は蛇口や貯水槽などからサンプルを採水した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000305-yom-soci



雨水で肉解凍、認める 水道代節約とミート社長

 食肉偽装事件で、北海道苫小牧市の食肉加工販売会社「ミートホープ」の田中稔社長(68)が28日、苫小牧保健所の立ち入り検査に、雨水をためて冷凍肉の解凍に使用していたことを認めた。食品衛生法違反の疑いがある。

 同保健所は同日、ミートホープ本社工場を調べ、屋上で集められた雨水を地下の水槽にためる設備を見つけた。

 田中社長は4−5年前から、水道料の節約のため、冷凍肉をビニールシートで包み、雨水をためた水槽に漬けて解凍していたと認めたという。

http://kumanichi.com/news/kyodo/index.cfm?id
=20070628000322&cid=main


何が出てきても不思議じゃない状況。。。
食の安全なんて次元じゃないね。ある種、革命かも知れん。

地元TV局の報道



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posted by zara at 23:30| Comment(0) | TrackBack(4) | ミートホープ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

光市母子殺害 本村洋さん会見 動画あり

「聞くに堪えない3日間」=元少年から見下ろされた−遺族の本村さん・母子殺害

 山口県光市の母子殺害事件で、広島高裁で開かれた差し戻し控訴審の公判終了後、遺族の会社員本村洋さん(31)は28日、広島市内で記者会見した。元少年の被告(26)の口から殺意と乱暴目的を否認する言葉が次々と出たことに「聞くに堪えない3日間。あまりにも身勝手な主張が多く、亡くなった者への尊厳のかけらも見えなかった」と語気を強めた。
 本村さんは3日間の法廷に、亡き妻と娘の遺影を胸に臨んだ。この日、被告が退廷する間際、事件後に初めて目が合ったという。「鋭い目でにらみ付けられた。遺族を見下ろされた。きょうほど憤りを感じたことはない」と深い怒りをあらわにした。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000174-jij-soci



光母子殺害:弁護側が犯罪心理鑑定で証人尋問

 山口県光市で99年にあった母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(26)の集中審理3日目が28日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれた。前日に続き、弁護側の依頼で元少年の犯罪心理鑑定をした日本福祉大の加藤幸雄教授の証人尋問があった。

 1、2審判決によると、元少年は99年4月14日、光市の会社員、本村洋さん(31)方で妻弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、首を絞めて殺害。長女夕夏ちゃん(同11カ月)も絞殺した。

 加藤教授は「自我が低下した中で、弥生さんに優しく接してもらい、亡き母のように甘えさせてくれるはずだという強い思いこみが(元少年に)生じた」と分析。一方、動かなくなった弥生さんの体を触ったことについては「母に対する依存感情が性的願望として大きくなっていくことはあり得るので、性的感情が全くなかったという元少年の主張は必ずしも適切ではない」と述べた。この他、1審前の少年鑑別所の記録で「退行した精神状況だった」などと、今回の鑑定と類似した結果が出ていたことも指摘した。

 公判後に記者会見した弁護団は「被告が語った内容で事実関係の一部が明らかにでき、内容は遺体の痕跡とも合致している。今後の裁判で重要な部分が証明されていくだろう」と語った。

 この後、7月24〜26日と9月18〜20日に集中審理がある。【大沢瑞季、安部拓輝、内田久光】

 ◇憤り隠せない…本村さん会見

 遺族の洋さんは公判終了後、広島市内で会見。元少年が1、2審で認めていた起訴事実を一転して否認した点について「裁判で真実を求め続けた7年間がほごにされた」と怒りをあらわにした。【安部拓輝、内田久光】

 −−3日間の集中審理の感想を。

 聞くに堪えない3日間だった。あまりにも我田引水で身勝手な主張が多い。亡くなった者への尊厳のかけらも見られず、憤りを隠せない。被告は全く反省していないと思った。初めて法廷で被告と目が合い、退廷時に鋭い目でにらみつけられた。今日ほど憤りを感じた日はない。

 −−被告が目を合わせた意図は何だと思うか。

 何を思い私たちを見たのか分からない。私は直感的に、この人間を社会に帰してはいけない、この人間を裁けない司法ならいらないと思った。

 −−亡くした妻と娘に報告できることは。

 むしろ妻と娘に聞きたい。何が本当に起こったのかと。現場を知るのは妻と娘と被告だけ。弁護団の「ストーリー」という言い方が非常に嫌い。物語ではなく、真実を究明するのが裁判だ。

 −−法廷で意見を述べたい思いは募ったか。

 裁判の最後の方で(犯罪被害者・家族の)意見陳述権を行使したい。公判を見ながら思ったことを正直に述べたい。

 −−被告の話し方や仕草に変化を感じたか。

 語彙(ごい)が増えたが、弁護団の弁論と同じ単語が多いと感じた。事件から8年がたち、言葉遣いや主語・述語の使い方などに成長の跡は見られる。

 −−被告の話に真実味を感じたか。

 検察側冒頭陳述が事件の真実と思ってきた。被告もずっと否認しなかったが、ここにきて主張を変え、内容があまりに支離滅裂。被告はうそを言っていると今は思うが、判定するのは裁判所だ。

 −−この1年で反省した形跡は見られたか。

 いいえ。それが非常に残念。極刑を求めるが、今の状態で死刑判決が出ても意味がない。

 −−3日間で許せなかった被告の言葉は?

 検察側の質問に「本法廷で言っていることがすべて」と答えた。今までの7年をほごにしてしまう言葉で許しがたい。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/
20070629k0000m040042000c.html





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posted by zara at 21:31| Comment(0) | TrackBack(11) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宮沢喜一元首相が死去

<訃報>宮沢喜一元首相が死去、87歳

 自民党元衆院議員、宮沢喜一元首相が28日午後1時16分、老衰のため、東京都渋谷区の自宅で死去した。87歳。

 宮沢氏は戦後一貫して「保守リベラリスト」の道を歩んだ。憲法9条改正に慎重で、護憲・ハト派の代表的な存在。経済政策面では、積極財政路線をとり、高度経済成長の流れをつくった。

 生まれは1919年10月、東京。東大法学部卒業後、42年に旧大蔵省入省。池田勇人蔵相(当時)の秘書官に起用され、堪能な英語力と国際感覚を買われ、同氏の訪米に常に同行。53年10月の「池田・ロバートソン会談」で、戦後日本の「軽武装・経済優先」路線の基調をつくった。

 政界入りは池田氏の勧め。同年4月、衆院議員だった父裕氏の地元・広島県から参院議員に初当選を果たした。2期務めた後、67年から衆院旧広島3区に転じた。当選12回。

 初入閣は62年の第2次池田再改造内閣の経済企画庁長官。その後、通産相、外相、官房長官、党総務会長などを歴任。86年9月に鈴木善幸前首相(当時)から、池田派に連なる「宏池会」を継承、故竹下登元首相、故安倍晋太郎元外相らとともにニューリーダーと呼ばれた。しかし、竹下内閣の副総理・蔵相だった88年12月、リクルートコスモス未公開株取得に関する問題で辞任した。

 91年11月に竹下派(当時)の支援を受け、72歳で首相に就任。だが、共和事件などスキャンダルが続発、バブル崩壊後の景気低迷にも悩まされ続けた。「実行」を約束した政治改革で、改革法案の取りまとめに失敗。93年6月、野党提出の内閣不信任決議案が自民党内の造反で可決された。衆院解散に打って出たが過半数を確保できず、責任を取り退陣。細川護煕氏率いる非自民の連立政権が誕生、「55年体制」の幕引き役となった。

 その後、小渕、森内閣で、蔵相、財務相に再登板。昭和恐慌の際に首相経験者で蔵相となった高橋是清に倣い「平成の是清」ともてはやされたが、経済再生は果たせなかった。首相時代に不良債権処理がバブル経済対策になると認識しながら、十分な手を打たなかったことへの批判も残った。

 03年10月、世代交代を迫る小泉純一郎前首相の要請を受け入れ衆院議員を引退。ただ、ハト派論客として積極的な発言は続け、小泉前首相の靖国参拝問題では近隣諸国への配慮から慎重に判断すべきだとの考えを示した。自民党新憲法起草委員会で「天皇に関する小委員会」の委員長を務めた。

 昨年6月、出血性胃かいようのため、東京都内の病院に入院。7月に退院し、テレビ出演などの活動は続けていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000064-mai-pol


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宮澤 喜一

(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員・衆議院議員。第78代内閣総理大臣(在任1991年11月5日 - 1993年8月9日)。(なお、報道機関では「宮沢 喜一」と表記されることがある。)称号は広島県名誉県民、福山市名誉市民。

経歴

生い立ち

山下汽船に勤めていた父・宮澤裕 母・ことの長男として生まれる。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等をつとめた小川平吉の二女。東京高等師範学校付属小学校、旧制武蔵高校を経て東京帝国大学卒業。在学中の1939年、日米学生会議に参加のため渡米した。

官僚として

1942年1月、大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳とともに津島壽一蔵相秘書官となる。1949年には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わる。1951年9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。

政界入り

池田通産大臣がいわゆる「中小企業発言」を巡って1952年に不信任されるのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌1953年、参議院選挙に広島県選挙区から出馬し当選。参院議院運営委員長などを経て、1962年第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。1967年には衆議院議員となり、以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。

自民党のニューリーダー

党内では池田派(宏池会)に所属し、早くから総裁候補と目された。ポスト田中で総裁に推す声が一部で上がった他、大平後継では本命との声もあったが同じ宏池会の鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らとともにニュー・リーダーの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。1986年、宏池会会長となり派閥を継承。プラザ合意以来の急激な円高を巡って中曾根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曾根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、猛烈な勢いで円高は進んだ。

1987年秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。

総理大臣就任〜自民党の徳川慶喜

1991年、海部首相の退陣にともなう自民党総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した(当時のキングメーカーであった金丸信は渡辺美智雄を推し、竹下は三塚博を推していた。結局双方が譲り合って宮沢が首班となった。 宮沢が年齢的に最後のチャンスであり、経世会の盟友的派閥の宏池会のたっての願いに竹下が先に折れて、最後に金丸が折れたという見方もある。金丸は最後まで渡辺に拘ったといわれている。)

自他ともに認める保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。またバブル崩壊後の金融不安を巡って、92年 8月の自民党軽井沢セミナーで金融機関への公的援助を示唆したが、官庁や経済団体、そして金融機関自身の強い反対にあって実行に至らなかった。

折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川内閣に政権を明け渡す。宮澤は自民党一党支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。

再び大蔵大臣に〜平成の高橋是清

その5年後の1998年に小渕内閣が発足すると、未曾有の経済危機に対処するため小渕は宮澤に大蔵大臣就任を要請。当初は難色をしめしていたが、小渕の強い熱意のもと就任を受諾、異例の総理大臣経験者の蔵相就任となり「平成の高橋是清」などといわれた。折からの金融危機に対処するため金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またアジア通貨危機にあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。続く森両内閣でも蔵相に留任し、初代財務大臣となる。

小渕・森内閣期を通じて経済危機への対応として、巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量の赤字国債を発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。金融危機を脱し、景気回復も軌道にのりかけたが、財政再建に乗り出す時間的余裕は与えられないまま再び景気は下降、森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。

政界引退〜政界のご意見番として

2003年総選挙の際、小泉・自民党の方針による立候補断念要請を受け入れ、議員を引退する。地盤は甥の宮澤洋一に譲った。引退後も元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番となり、様々な形で活躍していた。

人物像

池田勇人との関わり〜戦後政治の生き字引

* 宮沢の前半生は池田勇人抜きに語ることは出来ない。広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家望月圭介の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)小川平吉も望月と親交があった。他方池田家は広島における望月の重要な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。もともと外務省か内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省。以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに戦後池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。
* 政界入りにも池田の意向が大きく働いた。池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は勧めて参議院選挙に出馬させた。この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。
* 官僚であった占領時代に通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わった。基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田-ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田-ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会った為に、「戦後政治の生き字引」などと言われる。これらの体験の多くは、著書『東京-ワシントンの密談-シリーズ戦後史の証言・占領と講和』(中公文庫)に収められ、戦後史研究の貴重な資料となっている。

政治スタンス

* 「ハト派」と言われ、穏和そうな外見もあり大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている(「人柄、特技」も参照のこと)。1970年代の外務大臣在任時、旧ソ連の古強者グロムイコ外相との北方領土交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(北海道新聞でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。普段はハト派を標榜しながらも、国益のためには強硬な姿勢も示す国益主義者だった一面がうかがえよう。また1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る男とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、負傷しながらも一人でその男を取り押さえたという事件がある。
* 保守本流の後継者として、実績では同僚議員の上を歩きつづけた。このため、政局に直接関わることは巧みに避けていたが、宏池会内では、前尾繁三郎と比較的親しく、大平正芳とは微妙な関係であった。佐々木義武、伊東正義など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とは一六戦争と呼ばれる抗争を巻き起こしている。(伊東正義とは後年和解している)このように政争、政局に関わらず、閥務に汗をかかないという宮沢の姿勢は、共感よりも反感を買っていた。度々、後継内閣に擬され、また財界から期待が寄せられながらも総理就任が遅れたのは、宮沢に敵が多かったためとも言える。なお、加藤紘一は、大平側近として知られ、個人としての宮沢は加藤よりも河野洋平を後継に望んだとされ、加藤の乱では、田中六助直系の古賀誠と結ぶ形で、加藤を失脚させている。加藤の乱では、大平女婿の森田一は加藤についており、宏池会内抗争の系譜が現在まで影響を及ぼした側面もある。
* 総理退陣直前、田中秀征の仲介で次期総理となる細川護煕と軽井沢で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。
* 2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的自衛権の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それを日米関係の21世紀への遺言であるとした。

政界随一の英語力

* 海外の要人との会談を通訳を介さず行うなど、英語力は政界随一とも言われる。通訳が他の閣僚の為に随行し通訳を行っているのを横で聞き、通訳の間違いを指摘した事もある。一方で宮澤嫌いで知られた田中角栄からは「英語屋」などと揶揄された。英語通とされるが宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用する。
* しかし、日本において日本人の後援者を招いた席で、アメリカの元国務長官とのディベートをあえて英語で行うなど、行き過ぎた英語力の誇示があったことも事実であり、この様な姿勢については石原慎太郎など多くの識者から批判を受けている。
* 「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。その漢学に王道と覇道というのがあるんです。つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。人を押しのけてまでというのはわたしの性にあいませんね」と述べている(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)。
* 「学生時代は辞書を丸暗記した」「辞書を食べた」といった伝説が実しやかに語られるが、本人曰く英語は東大時代に日米学生会議に出て使い物にならないことを痛感し、戦時中も英字新聞などを日々読むようになったといい、なんといっても占領時代、必要に迫られて毎日英語を使わざるを得なかったことが大きかったという。
* 議員会館の食堂で英字新聞や英文雑誌を読んでいる宮沢の姿は周囲から「英語上手を鼻にかけて嫌味な奴」と思われていたらしい。あるとき、後ろから「日本の国会議員なら日本語の新聞を読みなさい!」と声をかけられるが、そこにいたのは新人議員の浜田幸一であった。浜田も後ろを向いていたのが宮澤とは知らなかったため(宮澤の方が歳も国会議員歴も先輩である)、恐縮していると、宮澤に「国会議員だから浜田さんも英字新聞を読みなさい」と切り返されたという。このエピソードはハマコーが何度もマスコミで語り、著作にも記述しているが「私は英語は勉強できないから息子(浜田靖一)を海外留学させた」というオチもついている。
* ブッシュ大統領が首相官邸での晩餐会の席上宮沢の膝の上に嘔吐した事件は、その映像が全世界に配信されて各方面に衝撃が走った。翌朝、官邸に詰めかけた国内外のプレスを相手に、宮沢は自らが一人で記者会見に臨んだ。しかも30分あまりの記者会見と質疑応答のほぼ全部を英語で行った。この際の宮沢の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からインフルエンザで体調不良だったこと、そして晩餐会席上の様子や食事の内容にいたるまで詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は堂にいったものだったとの評価を受けた。前代未聞の大統領の醜態に右往左往するアメリカのメディアも、膝に吐かれた総理本人がこうこうしかじかと淡々と説明しているの見て、これなら心配はないとすぐに察したという。
* クリントン大統領は総理時代の宮沢との会談後、宮沢のオーソドックスな発音やステーツマン的な言い回しに驚き、これを賞賛したという。宮沢の流暢な英語は、アメリカのメディアでも南部訛りのあるクリントンの英語より上手いと評判になった。
* このように宮澤を語るにあたり、英語を巡る逸話は欠かせないものとなっているが、閣僚として国際交渉を重ねるうちにフランス語の重要性を痛感し、中年を過ぎて勉強を始めた。当人は「志半ばで終わった」と語るが、議員としての多忙な日々の合間に習得への努力を重ねていたことが知られている。

日韓W杯招致に尽力

* 見かけによらないが旧制中学時代にサッカー経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。このため1994年12月に発足した超党派のワールドカップ招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、森喜朗、久保亘、小沢一郎)。超党派というのは、これ以前、1992年3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの新進党主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。1994年の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し大きな運動となっていった。世界中を駈けずり回ったのは長沼健日本サッカー協会会長(当時)らだが、国際的にも顔が広い宮沢も多くの国を訪問し大きな力となった。また共催に向けての重要な局面に於いても的確なアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎、川淵三郎、小倉純二、衛藤征士郎、釜本邦茂と参加し、共催を後押したことでも知られている。(出典:新時代へのキックオフ、仮野忠男著、角川書店、2001年9月 サッカー批評 長沼健回顧録(32号、33号、34号)、双葉社(2006年〜2007年)

人柄、特技

* 学歴に異常なこだわりを持つ上に、母校東大へのこだわりが強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞き、東大卒でないと露骨に馬鹿にするので非常に嫌われていた。早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわした。宮澤が竹下登と初めて会ったときに「(東大法学部の)何期生ですか?」と尋ね、竹下は「早稲田です」と返した。そして宮澤は「じゃあ、政経(政治経済学部)ですよね?」と言い、竹下が「いえ、商学部です」と返したところ、宮澤は竹下のことを鼻で笑ったという。また、温厚な竹下が、宮澤から「貴方の頃の早大商学部は無試験だったそうですね」といわれたことを「許せない」と言っていたというエピソードを、佐々淳行が伝えている(『後藤田正晴と十二人の総理たち』)。所属する宏池会の親分であった大平正芳(東京商科大学(現在の一橋大学)出身)さえ宮沢に好意をもてずにいた事は広く知られている。とはいえ、最近では昔のような東京大学の圧倒的優位の時代は終わり(宮澤以降の首相は現在まで8人連続で私大出身者)、宮澤の息子は早稲田大学理工学部を、娘は慶應義塾大学法学部をそれぞれ卒業している。また、宮澤の岳父は早稲田大学名誉教授である。
* 中央省庁再編時、大蔵省が財務省に組織変更される際、官僚から「ぜひ銘板に揮毫を」と頼まれるが、宮澤はそれを断り業者に発注してしまう(コンピュータによる字体が採用された)。嬉々として揮毫する他の国務大臣とは一線を画した格好となった。曰く、「王羲之という人で書はもう完結しちゃったと思うんですよ。これ以上は書けない。(・・・)だから、役所の長く残る看板の字を書くなんてことは、とても素人の手に合う話でない。」
* ある政治部の記者が、達筆で知られる宮澤に「田中氏や福田氏の書く字はどう思われますか」と質問すると、宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返した。
* 大蔵省時代にまわった地方については期間は1年といなかった筈だが遊説で数十年経って訪れても「町の角から角まで」「事件の起きた日付まで」覚えているほど記憶力は抜群である。
* 大変に酒癖が悪く、酔った席上で、記者に対し「金丸さんという人には、簀巻きにして川に沈んでもらったほうがいい。山梨には、釜無川というちょうどいい川があるそうですな」と、金丸信を痛烈に批判した。しかし、後に「識見と豪腕は日本一」と金丸に接近し、金丸のバックアップを得て首相に就任した。
* その金丸が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれた際、幼稚園を訪問していた宮澤は、その知らせを聞くなり、あまりの嬉しさに幼稚園児に混じって踊りだした。日頃、滅多にパフォーマンスをしないだけに、周囲の者は「首相はご乱心か」と心配したという。
* 学生時代のエピソードが、城山三郎の小説「友情力あり」のモデルとなっている。また同じく城山三郎の小説「官僚たちの夏」に登場する経済企画庁長官「矢沢」のモデルでもある。
* 白洲次郎が取り上げられる際、よく知る人物としてたびたび登場する。白洲について取材に来た明石家さんまと対談するが、白洲と連合国軍総司令部との交渉の核心については宮澤はなかなか語らなかった。さんまから「喋ってくださらないんですね」といわれると、飄々とした語り口で「それを聞き出すのが貴方の仕事でしょ」と返した。
* 一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている(宮澤裕が被差別部落出身かどうかの真偽は不明)。[要出典]
* 2000年5月の神の国発言のとき宮澤は森喜朗内閣の大蔵大臣であった。記者会見で首相の発言に対するコメントを求められた際、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答し記者団の笑いを誘った。

最近の様子

* 2005年夏に体調を崩し、入院をした。秋に公の場に姿を見せたときは容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けてきた。2006年7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えていたが、翌2007年2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加、スピーチも行うなど元気な姿を見せた。2007年6月28日午後1時過ぎ、老衰のため東京都渋谷区内の自宅で死去。享年87。

略歴

* 1919年10月 東京市に生まれる 本籍地は広島県福山市金江町金見
* 1932年 旧制武蔵高等学校尋常科入学(入試の成績は81人中27番)
* 1936年 旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学
* 1939年 旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学
* 1941年12月 東京帝国大学法学部政治学科卒業
* 1942年1月 大蔵省入省
* 1943年11月 伊地知庸子(父・純正は早稲田大学教授)と結婚
* 1945年8月 津島寿一蔵相秘書官事務取扱(同時に大平正芳が秘書官をつとめている)
* 1949年1月 池田勇人蔵相秘書官
* 1951年8月 サンフランシスコ講和会議に全権随員として出席
* 1953年4月 退官し広島地方区より参議院議員選挙に出馬、当選(〜1965年7月)
* 1962年7月 第2次池田改造内閣で経済企画庁長官 (〜1964年7月)
* 1966年12月 第1次佐藤改造内閣で経済企画庁長官(〜1967年11月)
* 1967年2月 衆議院議員に鞍替えし、当選(〜2003年10月)
* 1970年1月 第3次佐藤内閣で通商産業大臣(〜1971年7月)
* 1974年12月 三木内閣で外務大臣(〜1976年9月)
* 1977年11月 福田改造内閣で経済企画庁長官
* 1980年7月 鈴木内閣で内閣官房長官
* 1984年11月 自民党総務会長
* 1986年7月 第3次中曽根内閣で大蔵大臣
* 1986年8月 宏池会(宮沢派)第5代会長に就任
* 1987年11月 竹下内閣で副総理兼大蔵大臣
* 1988年12月 副総理・大蔵大臣を辞任
* 1991年11月 自民党総裁、内閣総理大臣
* 1993年4月 訪米時、史上初めて内閣総理大臣として政府専用機を使用。
* 1993年6月 内閣不信任案可決により衆議院を解散(嘘つき解散)するも総選挙に敗れ内閣総辞職。
* 1998年8月 小渕内閣で大蔵大臣
* 2000年4月 森内閣で大蔵大臣(留任)
* 2001年1月 省庁再編により最後の大蔵大臣から初代財務大臣に就任(〜4月)
* 2003年11月 政界引退。
* 2007年6月 老衰により死去。

家族・親族

* 父 宮澤裕(会社員、政治家)
* 母 こと(長野県,弁護士、政治家小川平吉二女)
* 弟 弘(官僚、政治家) 泰(外交官)
* 妻 庸子(宮崎県,学者・早稲田大学名誉教授伊地知純正二女)
* 甥 洋一(官僚 政治家)
* おじ 小川平二(政治家) 平四郎(外交官)等

系譜

* 宮澤氏  父・裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)に生まれ、苦学して東大を卒業。息子3人もまた東大を出た。いまや宮沢家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮沢家が名門であったわけではない。竹下、安倍が大地主で酒造業、醤油製造業を営んでいたのに対して宮沢の場合はぐっと落ちて小農の出である。(『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』)

鹿吉━裕┳喜一
    ┣弘━洋一
    ┗泰

著書

一部を抜粋掲載する

単著

* 『東京―ワシントンの密談』(実業之日本社, 1956年/中央公論社[中公文庫], 1999年)
* 『社会党との対話――ニュー・ライトの考え方』(講談社, 1965年)
* 『戦後政治の証言』(読売新聞社, 1991年)
* 『聞き書宮澤喜一回顧録』(御厨貴・中村隆英編, 岩波書店, 2005年)

共著

* (中山伊知郎)『将来経済の構想』(筑摩書房, 1969年)
* (高坂正堯)『美しい日本への挑戦』(文藝春秋, 1984年/文春文庫, 1991年)
* (中曽根康弘)『対論改憲・護憲』(朝日新聞社, 1997年/朝日文庫, 2000年「憲法大論争 改憲vs.護憲」に改題)

参考文献

* 浜田幸一 『日本をダメにした九人の政治家』講談社 1993年 ISBN 406206779X
* 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 2000年 157、173、340貢
* 佐藤朝泰 『豪閥  地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 448、463貢
* 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 197-211貢

関連項目

* ハト派
* 自由民主党総裁
* 時事放談
* 私の履歴書
* 高橋是清
* 小森龍邦
* 犬養毅 祖父の別荘の隣人。幼少時にときおり接している。
* 加藤の乱
* 嘘つき解散
* 田中角栄
* 宮沢内閣
* 宮沢改造内閣

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%
AE%E6%BE%A4%E5%96%9C%E4%B8%80



宮沢喜一は英語でモノを考えてると言われました。
頭は相当切れた政治家ではありましたが、
政治力という点では少々弱かったのかなぁ。

主義主張という点では、決して嫌いな政治家ではありませんでした。

ご冥福をお祈りいたします。







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posted by zara at 19:12| Comment(0) | TrackBack(35) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

緒方元長官らを詐欺容疑で逮捕 動画あり

詐欺容疑で緒方元長官逮捕 総連本部偽装売買、東京地検

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の土地・建物をめぐる仮装売買事件で、本部の土地・建物の所有権を移転させて財物をだまし取ったとして、東京地検特捜部は28日、詐欺容疑で元公安調査庁長官で弁護士、緒方重威(おがた・しげたけ)容疑者(73)と取引を仲介した不動産会社元社長、満井忠男容疑者(73)ら3人を逮捕した。
 調べによると、緒方容疑者ら3人は今年5月、東京都千代田区にある本部の土地・建物について、総連の代理人である土屋公献(こうけん)弁護士(84)に「資金の調達は可能」との虚偽の申告を行い、代金35億円を支払わないまま自ら社長を務める「ハーベスト投資顧問」に移転登記させ、中央本部の土地・建物をだまし取った疑い。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000910-san-soci



緒方氏ら詐欺罪で立件へ 朝鮮総連移転登記

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の土地建物が、緒方重威(しげたけ)元公安調査庁長官(73)が代表の投資ファンドに登記上売却された事件で、元長官の下で出資者を探していた元信託銀行員(42)が、資金調達の見込みが薄いという報告書を作成したにもかかわらず、緒方元長官が調達可能と改ざんして総連側に提出したことが分かった。東京地検特捜部は、緒方元長官が総連側に、土地建物は売却可能と信じさせた疑いがあるとして、緒方元長官らの詐欺罪での立件に向け、詰めの捜査を急いでいるもようだ。

 関係者によると、緒方元長官は先月二十六日、元銀行員が連れてきた岐阜県内の航空ベンチャー会社社長(41)と東京都内で面会。中央本部会館の購入資金として、自分が代表を務める投資ファンド「ハーベスト投資顧問」(東京都目黒区)に出資するよう依頼した。社長は出資話にあまり熱心ではなく、「検討しましょう」などとあいまいに答えたという。

 会談後、元銀行員が報告書を作成。「社長から『検討する』との回答があった」という趣旨の内容だったが、緒方元長官が「社長の出資を確認した。次回にも売買契約の締結は可能」などと内容を書き換えたという。

 報告書は同日付で、総連幹部や総連代理人の土屋公献・元日本弁護士連合会会長(84)らに送られ、総連側と緒方元長官の投資ファンドは同三十一日、代金の支払いがないまま売買契約を結び、今月一日に所有権移転登記を申請、八日に完了した。

 航空ベンチャー会社の社長は周辺に「ファンドに出資するとは言っていない。初めから無理だと考えていた」と話しているという。元銀行員も「社長の出資は難しいと思っていた」と漏らしていたとされる。

 緒方元長官は今年四月上旬、懇意にしていた不動産会社元社長(73)から中央本部会館の購入を持ちかけられ、出資者を探していた。総連側は元社長の要求に応じて四億八千万円を現金で提供。元社長側から緒方元長官に一億円が渡っていた。

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/
CK2007062802027983.html


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満井忠男

満井忠男(みついただお、1934年 - )は不動産会社元社長、政治家の元秘書。

概要

かつて、自民党三塚派(清和会)会長・三塚博の秘書だった。

また、1998年当時、不動産会社「三正」の社長を務めていた。

1998年に東京・神田神保町の土地の所有権を移したように装い(仮装売買)、金融機関の差し押さえを免れようとした強制執行妨害の容疑で警視庁に逮捕されたことがある。

朝鮮総連本部ビル売却問題

朝鮮総連本部ビル売却問題の仲介役を果たしたと報道されて注目を集めた。総連側からの4億7500万円を受け取ったことを認めている。そのうち1億5000万円は資金調達役の元銀行員に、2億円は総連に返却し、1億円を貸金庫に保管していると説明した。

自民党議員との関連

自民党幹事長の中川秀直に献金していたことが一部メディアで報じられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E4
%BA%95%E5%BF%A0%E7%94%B7



不思議な事件ではある。逮捕の報を聞いた時、総連施設の差し押さえを妨害した罪かと思ったら。。。詐欺罪の容疑と言うことだ。買う金も気もないのに売買を持ちかけたことが詐欺だと。。。そうなると総連側は被害者となるわけで。。。まだこれから先の展開があるんだろうか?


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この件に関する過去記事
総連に全額返済命令 動画あり
総連売却 現役職員が口利き
総連 首相の発言を批判
総連本部売却のなぜ?
総連本部売却の闇 動画あり
総連本部は元公安庁長官代表の会社に売却



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posted by zara at 18:29| Comment(0) | TrackBack(17) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

石見銀山が世界遺産登録

「石見銀山」世界遺産に登録、「延期」の諮問勧告“逆転”

国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は27日、当地のクライストチャーチ・コンベンションセンターで新規登録の審議を行い、日本が推薦した島根県大田市の「石見銀山遺跡とその文化的景観」について、「登録」と決めた。

 同遺跡はユネスコ諮問機関から「登録延期」と勧告されたが、文化庁や外務省などの働きかけもあり、“逆転登録”となった。日本の世界遺産登録は14件目。

 同遺跡については、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(ICOMOS)」が5月、遺跡の普遍的価値の証明が不十分として、「登録延期」と勧告していた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000005-yom-soci



石見銀山:世界文化遺産に「逆転登録」「産業遺産」で初

 ニュージーランドで開かれているユネスコ(国連教育科学文化機関)の第31回世界遺産委員会は28日、日本が推薦した「石見(いわみ)銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)の世界文化遺産への登録を決めた。同遺跡は5月、日本の候補地としては初めて、諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)から「登録延期」を勧告されたが、政府や地元が外交ルートを通じた巻き返しを図った結果、評価が2段階格上げされ、「逆転登録」が実現した。

 日本からの登録は、05年の知床(北海道)に次いで14番目、文化遺産では04年の「紀伊山地の霊場と参詣道」(和歌山、奈良、三重県)以来11番目。科学技術や産業活動を表す「産業遺産」では初の登録となる。

 石見銀山遺跡は、16〜20世紀に採掘された日本有数の銀鉱山遺跡。鉱山跡や鉱山町、積み出し港などからなり、総面積は442.5ヘクタール。17世紀初頭には、世界に流通する銀の3分の1を日本銀が占めたとされ、その大部分が石見銀だった。

 日本は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作る、世界に類を見ない鉱山」と主張。しかしイコモスは5月、「遺跡の0.1%しか発掘を行っておらず、考古学的調査が不十分」など24項目の課題を指摘し、登録延期を勧告した。

 これに対し「価値が正しく理解されていない」と、文化庁や外務省、地元が協力して反転攻勢を強め、同月には委員会に政府代表として出席する近藤誠一ユネスコ大使が現地を視察。今月には、勧告に反論する英文110ページの「補足情報」を他の委員国へ送るなどしていた。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/
20070628k0000e040061000c.html



石見銀山

石見銀山(いわみぎんざん)は戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録された。殺鼠剤の『石見銀山』については、後述の「副産物」を参照のこと。

開発

鎌倉時代末期に銀が出たという伝説もあるが、本格的に開発したのは博多の商人、神谷寿貞である。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。この年、神谷寿貞は大森に入り、中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。(灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。)

銀山争奪

1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、最終的に毛利氏が勝利を収める。しかし、1584年(天正12年)毛利氏が豊臣秀吉に服属すると銀山は毛利氏と豊臣氏の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。

商業への影響

石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、精錬加工された銀(『丁銀』)は基本通貨として広く国内(主に銀本位制の西日本)で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易をも支えた。当時の銀産出量は世界全体の三分の一に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・中国でも有名になった。丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用。)のため、原形をとどめる物は希少。

その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されるほどで、その一部を地元の義肢装具メーカーの社長である中村氏が私財を投じてオークションで入手、大田市に寄贈された地図にも記載がある。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インド・マレー半島・中国・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。

当然、銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった『火縄銃』が含まれていた可能性も指摘されている。

幕府直轄領

関ヶ原の戦い後、徳川家康は石見を幕府直轄領とし、初代銀山奉行として大久保長安を任命した。長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村に直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置され、大森に奉行所(銀産出量の減少により、後に代官所に格下げ)が置かれた。

当初、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。しかし冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森〜粕淵〜九日市(美郷町)〜三次〜甲山〜御調〜尾道)を整備し、尾道から大坂の「銀座」へ船積みするようにした。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、領内の郷村に対する人的・物的負担や街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。

1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した。(後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている。)

終末

石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期にはほとんど産出しなくなった。幕末には長州戦争で長州藩が一帯を占領している。1887年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移すが、1923年(大正12年)には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。

現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余り残り、龍源寺間歩の一部は一般公開されている。

副産物

* 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物(亜ヒ酸)を大量に含んでおり、これを細かく砕いたものを殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。

* 金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に鉛の蒸気を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。また鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや、古文書の研究からその平均寿命はおよそ30歳程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられている。なお「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。

* 1977年(昭和52年)、作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3
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posted by zara at 13:33| Comment(1) | TrackBack(19) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フジモリ氏、参院選出馬表明

フジモリ氏、参院選出馬へ=国民新から−日本帰国は困難

チリで自宅軟禁下にあるフジモリ元ペルー大統領(68)のスポークスマン役を務めるペルーのラフォ国会議員は27日、フジモリ氏が国民新党の要請を受けて7月の参院選に出馬することを明らかにした。
 同議員は時事通信に対し「フジモリ氏は熟慮の末、日本の参院選に立候補することを決めた。出馬理由については、あす(28日)、ペルー国民に伝える」と指摘。その上で「出馬はペルー人にとって光栄なことだ。同氏の豊富な経験と能力を日本で活用できる」と強調した。
 ただ、ペルー政府は同氏が大統領時代に殺人や汚職に関与したとしてチリ政府に身柄の引き渡しを要求。チリ最高裁で可否の検討が大詰めを迎えているため、日本で選挙戦を行うことは不可能だ。仮に当選したとしても、多くの刑事裁判が待ち受けるペルーに引き渡される公算が大きく、実質的に日本で議員活動をすることは困難視されている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070628-00000023-jij-int



<参院選>国民新党のフジモリ氏擁立 なぜ、いま?

 7月の参院選に国民新党がチリ滞在中のフジモリ元ペルー大統領(68)の擁立を進めている。同党は東京選挙区(改選数5)からの立候補を強く促しているが、本人は比例区からの出馬に固執しているという。亀井静香・同党代表代行は同氏を「ラスト・サムライ」と呼び、日本の政界入りを期待する。いまなぜ、フジモリ氏なのか?【鈴木琢磨、メキシコ市・庭田学】

 ●法的な問題は?
 「いまの日本の政界にフジモリ氏ほどのサムライがいるかね」。在ペルー日本大使公邸占拠事件から10年、フジモリ氏とかねて親交のある亀井氏は折に触れ、そう語っていた。悲願だったペルー大統領に返り咲く道が断たれていたフジモリ氏も第二の故郷、日本で政治家に転身する意欲を持っていた。両者の思いは合致し、参院選の「サプライズ候補」にすべく水面下で折衝を続けていた。
 フジモリ氏は熊本県出身の両親が1934年にペルーに移住したあと、38年にリマで生まれた。日本大使館に出生届が出されたため、日本国籍を持つ。日本に居住していなくても被選挙権はあり、参院選に立候補することに法的な問題はない。

 ●本当の狙いは?
 参院選後のキャスチングボートを握りたい同党が議席1増で注目区の東京選挙区にフジモリ氏に白羽の矢を立てたのは、その知名度だけではない。もうひとつ重要なポイントがあった。
 関係者によれば、フジモリ氏は「平壌と独自のチャンネルがある。ぜひ拉致問題の突破口を開きたい」と周囲にもらしているという。フジモリ夫人もたびたび訪朝している。国民新党側にすれば、こうしたパイプを生かしてこう着状態の日朝関係が動かせれば、安倍政権へ一定の影響力を行使できると踏んでいる。
 一方、フジモリ氏にとっても、日本政界に身を置けばペルー政界での影響力も保てる、との思惑があるとみられる。

 ●本人不在選挙?
 フジモリ氏は現在、チリで自宅軟禁の状態にある。大統領時代に人権侵害や汚職に関わったとして、ペルー政府がチリに身柄の引き渡しを要請。13件の事案のうち12件について今月7日、チリ最高裁検察官が「引き渡しすべきだ」と最高裁判事に勧告した。最高裁は近く判決を出す見通しだ。
 しかし引き渡し判決が出てもチリでは上訴が可能で、確定判決は今年9月ごろ、長引けば来年にずれ込むとみられる。仮にペルーへの引き渡しが認められなかったとしても、ペルー側は別の人権侵害事件で再度要請する見通しで、チリで再び審理が行われた場合、同氏はすべてが決着するまで同国に滞在し続けることになる可能性がある。
 国民新党幹部によると、週明けにも出馬するかどうかを正式に決定するというが、出馬しても本人が海外で軟禁状態にある、極めて異例な形での選挙戦となりかねない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070623-00000038-mai-pol



国民新党は外務省を通じ、チリ政府に対してフジモリ氏の出国を認めるよう働きかけると言ってますが。。。そんな、日本に来れるかわからないような人を立てても。。。

比例区からの立候補のようですが、名簿順も気になるところ。

この件に関する過去記事

フジモリ元大統領参院選出馬?



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posted by zara at 12:01| Comment(0) | TrackBack(5) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハトシェプスト女王のミイラ

<ミイラ>古代エジプトの女性「ファラオ」と特定

エジプト考古庁のザヒ・ハワス局長は27日、古代エジプト第18王朝(紀元前16〜同14世紀)で君臨したハトシェプスト女王(在位・紀元前1502〜同1482年)のミイラを特定したと発表した。局長は毎日新聞に「ツタンカーメン王のミイラ発見以来、最も重要な発見の一つ」と強調した。

 ハワス局長によると、このミイラは1903年にエジプト南部ルクソールの「王家の谷」で発見されたミイラ2体のうちの1体。1922年にツタンカーメン王のミイラを発見した英国人考古学者、ハワード・カーター氏が発見した。しかし墓自体が小規模で粗末だったため、当時は重要とみなされなかった。

 ハワス局長らのチームが、ミイラや所蔵品を調査したところ、1881年に別の墓から発見された、ハトシェプスト女王の名前が刻まれた箱にあった臼歯と、1903年発見のミイラの歯茎の穴が一致した。
 ミイラのDNA(デオキシリボ核酸)と、女王の父親にあたるトトメス1世や、祖母にあたる人物のミイラのDNAも極めて似ていたという。
 ミイラを調べたところ、女王は太り気味で虫歯があり、糖尿病に苦しんでいた。後継のとの不仲から謀殺説もあったが、50歳前後にがんで死亡したという。
 同女王は第18王朝第5代で、「ファラオ」の称号を持つ古代エジプトの数少ない女性として知られる。トトメス2世と結婚して王妃に。2世の死後はトトメス3世の摂政として実権を握り、後に自ら女王に即位した。
 第18王朝は、現在のソマリアにあたるプントとの交易を行うなど、古代エジプトの栄華を体現した。ハトシェプスト女王は常にひげをはやした男装スタイルの彫像や絵が残されており、長く女性と知られていなかった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070627-00000123-mai-int


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ハトシェプスト女王

(Hatshepsut)は、古代エジプト第18王朝5代目のファラオ。在位は、紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃。

父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフゥルウラー。

夫であるトトメス2世は妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。その際には男装し、顎に付け髭をつけていたと伝えられる。 戦争を好まず、平和外交によってエジプトを繁栄させたが、そのことは同時にエジプトの国威の低下を招くことになる。 死後その事跡はトトメス3世によって抹殺された。 なお旧約聖書「出エジプト記」でモーセをナイル川で拾って育てた義母は彼女とも言われている。

2007年6月、1903年に王家の谷で発掘された女性のミイラが、DNA鑑定の結果、彼女のものであると確認された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%88
%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%88





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posted by zara at 08:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月27日

偽装の動機はBSEだと?コイツは非人だ

ひき肉偽装、動機は「BSE」?=民主議員調査にミート社社長

 北海道苫小牧市の食肉加工卸会社「ミートホープ」のひき肉偽装事件で、牛ひき肉に別の肉を混入させ始めた動機について、田中稔社長が「BSE(牛海綿状脳症)問題で粉状の牛肉が手に入らなくなったため」と話していることが27日、民主党の調査で分かった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20070627-00000181-jij-soci



コイツは人にあらず。現代に現れた鬼か邪か?BSE問題の遥か以前から偽装が行われていたのは白日の元の事実。


ミート社、20年以上前から不正常態化・農水省

 北海道苫小牧市の食肉加工販売会社「ミートホープ」が豚肉などを混ぜたひき肉を「牛ミンチ」として出荷した問題で、農林水産省は25日、同社や北海道加ト吉(赤平市)への立ち入り検査結果を公表した。鶏肉や豚肉、かも肉を混ぜた牛ミンチ偽装のほか、外国産牛肉が混入した牛ひき肉を国産と偽るなど、20年以上前から田中稔社長の指示に基づく不正が常態化し、10項目以上に上ることが分かった。

 立ち入り検査は22日からミート社の事務所や工場、同社系列の販売会社と北海道加ト吉を対象に24日まで実施。

 ミート社が1998年ごろから田中社長の指示で牛ミンチの偽装を始め、不正が社内で常態化していたことが社員らの証言で判明。偽装された牛ミンチは北海道加ト吉など18社に出荷され、販売伝票が確認できた最近1年間では368トンを販売していた。農水省は今後、出荷先についても調査を進める。

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/
20070626AT1G2502825062007.html



ミート社 社名変え存続意向 社長、廃業から一転

苫小牧市入船町の食肉加工製造卸会社「ミートホープ」の牛ミンチ偽装事件で、同社の田中稔社長は二十七日朝、自宅前で報道陣に対し、「工場は冷蔵庫などの設備が非常にいいので、なんとか使えるようにしたい」と述べ、社名を変更して会社存続を探る意向を示した。

 田中社長は、会社名に関して「『ミートホープ』ではだめ」と述べる一方、二○○五年十一月に同市汐見町で稼働させた新工場などの設備を存続させたい考えを強調。会社の売却については否定した。施設を保持した上で、同業他社などに貸し出し、時期を見て再建する手法も検討しているとみられる。また、解雇方針を伝えた七十一人の全従業員の再雇用先を他社に相談し始めたことを明らかにし、「何社か興味を持ったところもある」と話した。

 同社は偽装発覚後の二十五日、「会社の存続は難しい」と事実上の廃業方針を示したが、二十六日の従業員説明会後、一転、「再建に向けてあきらめているわけではない」(田中恵人専務)と存続を探る意向を示していた。

 一方、苫小牧消費者協会(橋本智子会長)は二十七日、ミート社の製品が学校給食や市立病院で使用されていたことから、苫小牧市にチェック機能の強化と、農水省や保健所などとの連携強化による再発防止を求めた。

 また、同日午前、民主党農林漁業再生本部と、民主党北海道農業再生・食の安全確立特別委員会の合同調査団が苫小牧入りし、元従業員や苫小牧保健所などから事情を聴いた。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/34629.html


コヤツ、会社を売却してまだ利益を得ようとしている、守銭奴。いや非人、金に目が眩んだ鬼畜に他ならない。妖怪リストに是非載せてもらいたい。

苫小牧の恥部、北海道の癌、日本の恥さらし




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posted by zara at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ミートホープ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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